「ひれ伏す」
彼はそのお説教で善を(特に「謙遜」を)「徹底」すべきことを力説したが、彼はそうする時に、文字通り「徹底して」とか「徹底的に」とかいう言い方をする以外に、もう一つの言い方をしている。
それは、「ひれ伏す」という強い印象を残す身体的表現を繰り返すことである。
以下が彼の言葉である。
抜き書きだが、省略記号は省く。
前後関係は引用元で読んでもらわなければならない。
注)「平伏」はどうも「へいふく」と読んでしまうので、「ひれ伏」と直させて頂いた。〔 〕は管理人による挿入。
謙遜がなければ神の国を見ることができない。
謙遜というのは・・・
神様の前でとっても大事な、人間の本質から出るはずの姿勢であり態度ですね。
ひれ伏す以外にないのです。
何処にでもいらっしゃる無限の神さまの前にひれ伏して、本当の礼拝が出来る人は間違いなく謙遜になれる。
神様の前では、頭を上げることも出来ない・・・
自分をお創りになった無限者であって、自分はもう小ささから言っても本当に全く無に等しい。
神さまの前に出たら、床にこうべをのせて、ひれ伏して礼拝する。
罪があるということを認めざるを得ない、神の前で・・・
そういうことをする人はひれ伏すことも〔する〕
はっきりと神の前でひれ伏して礼拝のできる人・・・
これだけ見れば、彼のお説教に特に問題はないように思われるかも知れない。それどころか、或る種の聴衆に於いては「素晴らしい」とさえ思いかねない。しかしそれは〈それだけ〉を見るからである。
「よく言うよ」と呆れなければならないもの
では、前回言った、イノセントな聴衆が気づいていない「私達がのけぞって『よく言うよ』と呆れなければならないもの」を示す。
まずは絵で。
言葉の引用が上と重複するが、お許し頂きたい。
彼のお説教を読みながら私の脳裡に浮んだストーリーは次のようなものであった。
注)彼の言葉をほんの少しアレンジした。しかし、殆どそのままである。
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そして彼は御聖体拝領に取りかかった |
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しかし、御聖体拝領は「神様の前に出る」以上のことではないのか? |
彼の言動のおかしさを知るために、これ以上の説明が必要だろうか。なにが、「感じて、わかるはず」であるか。私には、このお方が何をそんなに「わかって」おられるのかわからない。
私は彼に言いたい。
御聖体拝領の現状がこうであるにかかわらず、あなた自身もそれを「よし」としているにかかわらず、よくそんなことをおっしゃることができますね。
──と。
上の写真は彼自身である。しかし、わざわざ写真を持って来るまでもなく、彼は勿論、通常、身体的な如何なる(或いは、特段の)謙遜の表現もしていない人々に神ご自身を与えているのである。
それでいて、彼はこう言っているのである。
「神様の前では、頭を上げることも出来ない」
「神さまの前に出たら、床にこうべをのせて、ひれ伏して礼拝する」
殊勝にも、彼はそのように言うのである。
これにより、或る種の聴衆の耳に、彼の神への謙遜は確実である。
しかし、私は彼に言いたい。(重複する)
御聖体拝領は遙かに「神さまの前に出る」以上のことなのではありませんか?
──と。
しかし、こんな指摘を受け取ると、彼は言うのだろうか、「それとこれとはちょっと別」と。(どう別なのか)
そしてすぐに別の原理を、別の見方を持ち出すだろうか。「神の愛」とか、「神との親しさ」とか云ったようなものを。
ついさっきまで「神にひれ伏す」とまで言っていたにかかわらず、彼はそうすることに素早いだろうか。
或いはこう言うのかも知れない──「あなたが跪きのことを言っているなら、それは "非日本的" です」。否、それはかなり "普遍的" なものである(小学生でも感ずべき疑問)。そして、どちらにせよ、インカルチュレーションなどと言われて、急に羽根を与えられた青年のようにワクワクしてしまったあなた方は、それほど賢明ではなかったのである。
彼はどんな人か
池長大司教様。彼は、一言で云って、どのような人か。
天主様の彼を憐れみ給わんことを。
しかし、はっきり言おう。
彼は「認識の乱れている人」である。
認識の仕方が非常に "得手勝手" な人である。
或る価値なり、美徳なり、原理などを、色んなものや場所に適用したり認めたりする場合に、その仕方がひどく "恣[ほしいまま]" な人である。
私達は実例を手にしている。
常識
彼はかつて「常識」ということに於いてそうだった。
すなわち、彼は「憂慮する会」との一件に於いて「常識」の旗を高々と揚げた。(常識家ぶった。いい顔した。)
しかし、実のところ彼がしたのは、「人に迷惑をかけてはならない」ということには「常識」という称号を与えるが、「犯罪事実の公言があるならば、その根拠の公示があって然るべきである」という、私達にとっては全く常識的に思えることにはそれを与えない、ということだった。(参照: 責める資格がおありか)
彼はそのように、「常識」ということへの "認識が乱れて" いる人だった。或いは、その認識の仕方が "得手勝手" な人だった。(過去でありますように)
神の厳罰性
彼はかつて「神の探求」に於いてもそうだった。
すなわち、彼は文藝春秋での対談に於いて「神の愛」を強調した。「神は罪人をも結局は(全て)救いあげる」とまで宣言した。(それにより、彼自身も「愛の人」となった。いい顔した。)
しかし、実のところ彼がしたのは、神の厳罰性の表現を「ヨーロッパの伝統」の中にのみ探し、「聖書」の中には探さない(たとえ探し、見出しても、それを口にしない)、ということだった。(参照: 詐術的話法, 得手勝手な選択と呆れる得心)
彼はそのように、「神の探求」に於いて "いい加減" な人だった。その仕方が "恣[ほしいまま]" な人だった。(過去でありますように)
敬虔の動作
そして今回も、彼は同じようにしたのである。
すなわち、彼はそのお説教に於いて「謙遜」を説いた。その「徹底」を説いた。そしてその時、その徹底性を言うために「ひれ伏す」という強い身体的表現を繰り返すことまでした。(それにより、彼自身も極めて「謙遜の人」「敬虔の人」となった。いい顔した。)
しかし、実のところ彼がしたのは、人は「神様の前に出る」時には「ひれ伏す」べきだが、「神の聖なる御体を拝領する」時には「立ったまま会釈する」ことで可である、という彼の哲学を身をもって示すことだった。
彼はそのように、「神の御前に於ける人間のあるべき敬虔の動作」に関して、信じられないほど "認識がアンバランス" な人である。
補足1
>(常識家ぶった。いい顔した。)
>(それにより、彼自身も「愛の人」となった。いい顔した。)
>(それにより、彼自身も極めて「謙遜の人」「敬虔の人」となった。
> いい顔した。)
補足2
彼はこれほど「ひれ伏す」を繰り返しながらも、神の厳罰性、厳罰の側面を認めているわけではない。彼の口から「罪」という言葉が出ていても、彼はそれを「神の罰」と対応させているわけではない。