2014.02.12

池長大司教様のバラバラの、統合性を欠く世界 Part 3

あなたは気づいてくれたか

 私が前回の絵で御聖体拝領のコマを赤く染めたのは、読んでいる人にその情景にふさわしいショックを感じて欲しかったからだ。あなたは気づいてくれたか。池長大司教様のおかしさに驚いてくれたか。

 私はあなた方の中に大司教様に対する敵意を焚き付けたくてこのような記事を書いているのではない。確かに、あなたは私の文章に私の或る種の感情を感じているだろう。それは、私が確かに池長大司教様のあれらのお姿に残念さ以上の感情を持ってしまっているからだ。
 しかしそれでも、私はいたずらに敵意を煽りたいのではない。ただ、私達は〈真実〉をよく知るべきだ、と思う。

 そしてまた、前回の記事を読みながら「ああ、この人は跪きにこだわっているからこんなことを書くのだ」と簡単に思ってしまった人があったかも知れない。しかし、それも違う。
 確かに私は「跪き」にこだわる。「御聖体奉挙」の時、そして特に「御聖体拝領」の時、「跪く」ぐらいのことは当然だと思うからだ。

 「跪きさえすれば私達はOKだ、立派なもんだ。それさえすれば私達の謙遜に欠けはない」などと云うことではない。「体の表現としてせめてそれが必要だ」と云うことである。
 そしてまた、私にはこの事もどうしても気になる。すなわち、私達の御ミサから跪きを取り外したのは間違いもなくフリーメイソン的な勢力である。

 しかし、今回の検討に於いては、立つことの良し悪し、また跪くことの良し悪しを扱っていない。それが主題なのではない。今回扱っているのは、飽くまで前回の後半でまとめてみたような、池長大司教様の非常におかしな御傾向のことである。人の目に「矛盾的」或いは「欺瞞的」とも映る、あのような御傾向のことである。

 欺瞞的。そうである。もし彼がシンプルに「体の動作など、内面とは無関係です」とだけ主張する人だったら、私はかえって彼の中に「欺瞞」の匂いを嗅がなかっただろう。

神戸中央教会

大阪梅田教会

 御聖体奉挙の時に突っ立っていることしかできない教会を作るくせに、他方ではしきりに「ひれ伏す」などと力説してみせるのだから、彼は欺瞞的である。

 「神さま、神さま」と言うくせに、「人の輪」のためのような教会を作るのだから、彼はどこか私達をだましているのである。

 ただし、彼の主観にはそのようなつもりはないに違いない。
 彼は混乱した人、混乱させられた人である。

彼の考える「罪」はその殆どが〈対人間的〉なもの

 人は彼のあのお説教を読んで、このことにも気づかなければならない。彼の考える「罪」は、その殆どが〈対人間的〉なものである。

心の持ち方、どんな持ち方をすればいいのか?
他者(ひと)にたいして他者(ひと)をどのように扱ったらいいのか?
どういうふうに他者(ひと)に交わればいいのか?

教会共同体の中でも、外の世界でも本当に他者(ひと)を大事にすることを徹底してしなければならない(…)

 もちろん、〈これだけ〉を見たならば、ここに悪いものはないわけだけれども。

 しかし、人は知っておかねばならない。
 彼は「神さま」と言う。「祈り」と言う。「マリア」と言う。「ロザリオ」と言う。「ひれ伏し」と言う。時に「痛悔」とさえ言う。
 しかし、彼の口から出たそれら全ては、「罪は実際のところその殆どが社会的なものである」という彼の世界観の方へとあなたを導くために役立てられるだろう。

 だから、彼の「徹底」という聞こえのよい言葉に乗せられる勿れ。それにうかうかと感服する勿れ。
 私達が聞くべき「徹底の声」は、例えば浦川和三郎司教様の御本の中にある。その中には対神的な方向性が適切にあるからである。*

* こんなことを言うと「あなたは自分の救いのことしか考えないのですか」という声が即座に返って来るほどカトリック界はおかしくなってしまった。今やあまり「対神的」であることは「利己的」を意味するのである。しかしそれは「私はその島に到達するために是非とも〇千カロリーのエネルギーが必要です」と言う人に対して「そんなことを考えるのは利己的ではないか」と言うようなものである。どこか噛み合っていない疑問の声ばかり挙げるのである。

補足
 「体の動作など、内面とは無関係です」という主張。これはこれでひどく間違っている。人間の心と身体動作との間には生きた密接な関係がある。つまりそれらは有機的に結びついている。これは現実であって、私達が自分の体で知っていることであって、否定できない。池長大司教様もこれを知っているからこそ躊躇いなく「ひれ伏す」を連発することができたのである。
 そして、その結びつきの形は民族を超えてかなり普遍的である。どの民族も、目上の人の前で謙遜を表わすために立って胸を張らないだろう。池長大司教様だってこれを認めるだろう。彼は「ひれ伏すことは "日本的" だ」と言う必要を特に感じなかったのである。そして実は「跪き」もかなり民族を超えて普遍的なものである小学生でも感ずべき疑問
 池長大司教様がおかしいのは、その同じ目を肝心の(最も尊ぶべき)御聖体拝領の場に向けないことである。
 物事を一から考えないことである。
 どの司教も、大司教も、御聖体を拝領する信者に立たせることを聖座から強制されていない。だから、それは彼らの選択である。時流のせいにすることはできない。人々の意見や望みのせいにすることもできない。(教会は全てに於いて合議制であるわけではないが、今や殆ど全てに亘って合議制的な "雰囲気" はある。しかしそれでも最終的にGOサインを出すのは司教様達や大司教様達なのだから、結局、人々の意見や望みのせいにすることはできない。)

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