2014.03.02

現代世界憲章は反キリスト文書である Part 4

二つの目的

「同胞愛の拡大」と「人間の偉大さの強調」

AA1025の構想と現代世界憲章がしていることを照合しておきます。

 こう言えると思います。
 「AA1025の構想とは、主のそのお祈りを利用して二つの事を促進することである。その二つとは、『同胞愛の拡大』と『人間の偉大さの強調』である。」

AA1025の手記より

ナザレのイエスの最後の祈りを強調すること。
これは今まで注目されたことのない祈りだ。
「 “一つ” であるように。父と私が “一つ” であるように」

この点について、特にカトリック側に良心の呵責を増大させること。キリスト教諸派に分裂を呼んだ責任は、カトリックにあることを強調すること。彼らが妥協しないためにシスムと異端が起こったのだ。(…)どのカトリック信徒も、プロテスタントを喜ばせるものを見つけ出すよう努めねばならない。

常に、慈善事業と同胞愛の拡大に彼らの心を駆り立てる。けっして神を語らせてはならない。その代わりに、人間の偉大さを語らせる。少しづつ、少しづつ、言葉と心の態度に修正を加えてゆく。

人間を第一としなければならない。人間への信頼を培わせる。すべての善意が一つとなって溶け込む「普遍の教会」を組織することによって、人はその偉大さを現わすのだ。人間の善意、誠実、尊厳は、いつも目に見えないでいる神よりも、遥かに尊い。それを分からせる。

 さて、その跡を現代世界憲章24番の中に探してみましょう。
 その二つはあるでしょうか。

24(…)なお主イエズスは、「われわれが一つであるように……すべての人が一つになるように」(ヨハネ 17・21〜22)と父に祈ったとき、人間理性が達することのできない視野を示したのであって、三位の神格の一致と、真理と愛における神の子らの一致との間の、ある類似をほのめかしている。この類似は、そのもの自体のために神が望んだ地上における唯一の被造物である人間が、自分自身を無私無欲の気持ちで与えなければ、完全に自分自身を見いだせないことを表わしている。

 既に見たように、彼が「三位の神格の一致と、真理と愛における神の子らの一致との間の、ある類似」と言う時、その「神の子ら (God's sons) 」というのは、「そのもの自体のために神が望んだ地上における唯一の被造物である人間」、つまり「人間」のことなのです。

 彼はこう言っているのです。
 (1)「人間はそのもの自体のために神が望んだ地上における唯一の被造物」である。「人間」はそれほどのものであるから「神の子ら」と呼ばれるに "値する" 。

 また、24番を離れて憲章の全体に彼の口吻を見る時──

 彼は、(2)「人間は神の似姿として創られた」という事だけによっても「人間」を「神の子」と呼ぶ人でしょう。

 更に、(3)「人間は、大地とそこに含まれる万物を支配せよと神から命令を受けた(34) という事によっても、彼は「人間」を「神の子」と呼ぶでしょう。

 更に、(4)「天主(御子)が受肉した」という事があります。彼にとっては、この事自体によって「人間性はわれわれにおいても崇高な品位(divine dignity)にまで高められた」(22) のです。
(彼の言う「われわれ」とは「全人類」を意味します。)

 更に、(5)「キリストはすべて人のために死んだ」という事があります。彼はこの事から「未信者が未信者のままでキリストの復活秘義にあずかる可能性」に言及します (22)

 と云うわけで、彼が「人間」を「神の子」と呼ぶために材料には事欠かないでしょう。

 しかし、そのようなモノの見方は「カトリック的」ではありません。カトリック的な見方(=言い方)によれば、人間は生まれながらに神の子「である」のではなく、人生の或る時点で神の御恵みによって神の子に「なる」のです。
( "言い方" は大事です。確かに私達は、同じ言葉をAという意味で使うこともBという意味で使うことも許されていいほど自分達は "知的" であると思って──油断して──います。しかし、私達はカトリック信仰に於ける "通常の言い方" を保つべきです。下段参照

 だから、人は、「そのもの自体のために神が望んだ地上における唯一の被造物」という彼の "言い回し" の前で、「ふむ、この言葉自体は真である」などと、のんびり言っていることはできません。そうすることで彼に「全人類」を「神の子ら」と呼ぶことを(或いは、言葉には出さなくともそのように "看做す" ことも)許してはなりません。それは一種の "強調" の言い回しであり、その裏に彼の "動機" があるからです。
 その動機とは、信仰のあるなしを不問にして、「人間」を「神の子ら」と持ち上げたい、ということです。

 以上が、AA1025の「人間の偉大さの強調」に当たります。

 そして、そのような視野の下に──「人間理性が達することのできない視野」、しかし本当は彼自身の根拠のない視野の下に──彼は人間を一つの〈道徳的な方向〉に押しやります。「人間は、自分自身を無私無欲の気持ちで(心から, sincerely)与えなければ、完全には自分自身を見出せない」と。
(真面目で純真な聖職者はこれに頷いてしまいます。思うに、彼らの「徹底」の呼びかけはこの辺から来ています。)

 ちなみに、私はその言い方がものすごく嫌いです。
 何故なら、そこには「方向性」が欠けているからです。「自分自身を無私無欲の気持ちで与える」と言う。しかし「何に」与えるのかが判然としない。
 また、「完全に自分自身を見出す」と言う。しかし「自分自身を見出す」とはどのようなことを意味するのかクリアーでない。

 しかし、彼に代って言いましょう。彼は、このような曖昧な言い方によって──言葉のうわべでは「神への愛」についても言うとしても──あなたに「自分自身を無私無欲の気持ちで人間に与える」ことを促しています。或いは、社会に。或いは、共通善に
 憲章の24番だけでは、この事は十分に確認できないかも知れません。しかし、憲章全体を見れば明らかでしょう。

 斯くて、神父様方は「社会教説狂い」のようになるように、「共同体構想狂い」のようになるように、日本国憲法に「福音的」という語を当てたりするようになるまでに参照、誘導されます。

 以上が、AA1025の「同胞愛の拡大」に当たります。

 結論

現代世界憲章とAA1025に於いて、主の「 "一つ" になるように」のお祈りの利用法は同じです。

二つの 「言わない」

 22番を見てみます。

現代世界憲章(Gaudium et Spes)22 から

 「見えない神の像」(コロサイ 1:15)であるかた自身が完全な人間であり、最初の罪以来ゆがめられていた神の似姿をアダムの子らに復旧した。人間性はキリストの中に取り上げられたのであって、消滅したのではない。このこと自体によって、人間性はわれわれにおいても崇高な品位(divine dignity)にまで高められたのである。事実、神の子は受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた。(…)

(…)復活の秘義に結ばれ、キリストの死に似た姿となるキリスト者は、希望に力づけられて復活に向かって進むであろう。
 このことはキリスト信者ばかりでなく、心の中に恩恵が目に見えない方法で働きかけているすべての善意の人についても言うことができる。事実、キリストはすべて人のために死んだのであり、人間の究極的召命は実際にはただ一つ、すなわち神的なもの(divine)である。したがって、われわれは神だけが知っている方法によって、聖霊が復活秘義にあずかる可能性をすべての人に提供すると信じなければならない。
 キリストの啓示が信ずる者に照らしだす人間の秘義は、このように偉大なものである。

 これらはAA1025の構想──「人間の偉大さを語らせる」「人間への信頼を培わせる」──そのものです。

 言葉の形としては「神の御業を誉め称える」形式をとっているから、善意の神父様方はこれらの言葉に頷きたくなるのでしょうか。
 そうだとすれば、あなた方はつまり弱点を利用されているのです。

現代世界憲章 (Gaudium et Spes)

日本語版全文(外部サイト、タイプミス多し)

各国語版入口(バチカン公式サイト)

通常の言い方 文中に戻る

287. なぜ私たち神の子であると言えますか。

私たちが神の子であると言えるのは、① 神は御自分に似せて私たちを創造され、その摂理によって保ち、治めておられるからであり、② 特別のお計らいによって洗礼を通して私たちをイエズス・キリストの兄弟、そしてキリストと共に永遠の生命の共同の世継ぎにしてくださったからです。聖ピオ十世

72. 私たちも神の子であるのに、なぜイエズス・キリストだけが御父の御ひとり子と呼ばれますか。

キリストだけが、本性から神の子であり、私たちは神に造られ、神の養子になったにすぎません。だから、イエズス・キリストは神の御ひとり子と呼ばれます。聖ピオ十世

553. 洗礼の秘跡の効果は何ですか。

洗礼の秘跡によって、第一の成聖の恩恵を受け、原罪と自罪およびその罰が完全に赦され、キリスト信者としての「印章」を刻み付けられて神の子、教会の一員となり、天国に入る権利と、他の秘跡にあずかる権利を受けます。聖ピオ十世

54. 成聖の恩寵とは何を意味するのですか?

成聖の恩寵は、人間を神の前に正しいものとし、神との親しい交わりに入らせ、神の子とし、神の生命にあずからせ、永遠の喜びを得る資格を与えます。なお成聖の恩寵を受けている人の内には父と子と聖霊が特に親しくお住まいになっておられます。カトリック要理

洗礼を授かるということは、人の一生中の最も大いなる出来事であります。何となれば、これによって人が罪の滅びの国から天主のみ国すなわち聖寵と愛と神聖の国へ移されるからであります。すなわち、これによって人間が天主の霊より生まれて天主の子となり、天主のご本性にあずかり、天国の相続者たる権利を与えられるのであります。今田健美神父

キリストの賜うところの生命は超自然、所謂超性の生命、神の子とせらるる生命であって、死する迄これを保たば、家督として天国の福楽を蒙るべきものである。この生命の原因は所謂成聖聖寵、即ち人をして聖とならしむる神の恩寵である。洗礼を受くる時はこの生命を得、聖体の糧を以てこれを維持し、大罪を犯せばこれを失い、なお改悛の秘蹟を以てこれを回復するものである。心戦

 カトリックの "通常の言葉遣い" に於いて「神の子」は、「教会」「洗礼」「成聖」等と結び付いた言葉です。文中に戻る

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