2014.03.25

現代世界憲章は反キリスト文書である Part 11

私達はカトリック信仰に於ける "通常の言い方"()を保つべきです。

「召命」 という言葉の意味合いを
教会の外にまで拡げる現代世界憲章

現代世界憲章

それゆえ、この公会議は人間の崇高な召命を宣言し、人間の中に神的な種子が置かれていることを肯定し、人間のこの召命に相応するすべての人の兄弟的一致を確立するために、教会の誠意に満ちた協力を人類にささげる。

Therefore, this sacred synod, proclaiming the noble destiny of man and championing the Godlike seed which has been sown in him, offers to mankind the honest assistance of the Church in fostering that brotherhood of all men which corresponds to this destiny of theirs.

人間の崇高な召命
the noble destiny of man
altissimam vocationem hominis

 私はこのような言い方に「気持ち悪さ」を感じます。何故なら、この言い方には人間のことを「誉め上げて」いるような感じがあるからです。
 私の錯覚でしょうか。あなたはこの言葉の並びを見て、この言葉が何を「崇高」と言っていると思うでしょうか。

 文法的に、字面だけを見れば、その形容詞は「召命」にかかっています。だから、この言葉はその「召命」のことを「崇高」と言っている、と言えます。しかし、それで済みますか。

 「崇高な召命」を与えられる存在は「品性低劣」なものではあり得ない、と言えるでしょう。しかし、もし私達が "文章理解" を越えて "人間理解" に進むならば、この筆者に於いて、それだけで済みますか。

 22番を振り返ることが役に立つと思います。そこで彼は「(天主・御子が受肉したことによって)人間性はわれわれにおいても崇高な品位(divine dignity)にまで高められた」と言ったのでした。

 彼は、かなり明らかに、或いは少なくとも実質的に、その「召命」のみならず「人間」という存在それ自体にも「崇高な」という形容詞を付しています。彼はそのような人です。

 しかし、後戻りして、もう少し字面の点検をしてみます。

形容詞「崇高な」

 上で見た3番に於いて、その形容詞は英語では「noble」となっています。その意味は「高潔な,気高い,崇高な,りっぱな,堂々とした,壮大な,見事な,すばらしい,高貴の,貴族の」等。
 ラテン語では「altissimam」となっています。これをGoogle翻訳にかければ「the highest」と出ます。
 ここにある問題を漫画で示します。

形容詞のお店に客が来る。店員「いらっしゃいませ〜」。客「すみません、『司祭の召命』につける形容詞を探しているんですが、『崇高な』っていうの置いてありますか?」。店員「大変申し訳ございません、生憎、その形容詞は昨日売り切れてしまいまして…」。客「あ〜そうですか。じゃ、それと似たもの、何かありませんかね」。店員「これなんか、いかがでしょう」。店員が差し出した形容詞「そこそこ崇高」。噂では、男のくせに妙なエプロンを身に着けた一団が「崇高な」という形容詞を買い占めて行ったということである。以来、司祭たちにはその形容詞は供給されなくなった。巷では人々が「それはある意味司祭たちの自業自得だ」と言い合った。それには一理ありそうである。司祭たちは「崇高な」という形容詞の希少価値をよく考えなかったのである。

 漫画にすると議論が人の目に安っぽく、或いは不謹慎に映るかも知れないけれども... 否、問題の本質は上の漫画に十分に表われていると思います。(自分で言うな)
 つまり、私達は「言葉」というものにもっと神経質でなければならない。以前、教会憲章が教皇様の権威に「完全・最高」という形容詞を付し、且つ同時に各国の司教団にも「完全・最高」という形容詞を付している事の奇妙──のことを書きましたが(参照)、ここでも似たような事が言えます。
 即ち、「人間の召命」に「崇高」というほとんど最上級の形容詞を使ってしまったら、「司祭の召命」のためにはどのような形容詞が残っていると云うのか、と云うことです。

 願わくは、これを「小さな事」と思わないで下さい。
 (むしろ「小さな事」から書き手の "人間" が分かるのであります。)

 このように形容詞が乱されると教会はどうなると思いますか?

名詞「召命」

vocation

11

人間の十全な召命
man's total vocation
integra hominis vocatione

21

人間の召命の尊厳
the dignity of the human vocation
vocationis humanae dignitatem

calling

第一部の表題

教会と人間の召命
THE CHURCH AND MAN'S CALLING
DE ECCLESIA ET VOCATIONE HOMINIS

22

人間の高貴な召命
his supreme calling
altissimam eius vocationem

destiny

3

人間の崇高な召命
the noble destiny of man
altissimam vocationem hominis

25

自分の召命に答えることができる
is able to rise to his destiny
suae vocationi respondere potest

 憲章の英語版は、右のように、この言葉を三つの言葉で言っています。(各言葉を辞書にリンクしておきました。gooの辞書では不十分かも知れませんが。)

 しかし、ラテン語原文では英語の「vocation」に当たる語のみを使っているようです。だから、日本語訳が「召命」という語のみを使っていることは正しいのでしょう。

 ところで、この「召命」という言葉は元々は極めて教会的な言葉だったのではないでしょうか。「司祭職への召命」とか「修道生活への召命」とか。「vocation」を辞書で引くと「天職, 聖職;(一般に)職業, 定職;(特に聖職・信仰生活への)神のお召し, 召令」と出るように、それは、自分の人生・生活をそっくり(職業的に)天主様の方に投げると云った、非常に思い切った決断と結び付いた言葉だったのではないでしょうか。
 つまり、その言葉は元々、私達信者にとって「高い山」のようなものをイメージさせるものだったのではないでしょうか。

 もっとも、今では「信徒使徒職」とか「共通司祭職」とかいうものが盛んに言われるようです。
 それらが「使徒職」であり「司祭職」であるならば、たぶんそれらにも「召命」という言葉を使うことが可能なのでしょう。
 そうであるならば、それによって「召命」という言葉の持つ意味合いが一段広がったというわけでしょう。
 しかし、これはまだ「信者」の話です

 ところが、現代世界憲章は更に進んで、信者/未信者を問わぬ文字通りの「すべての人」に「召命」という言葉を適用します。

 適用範囲がますます広がりました。
 その言葉は教会の外にまで出ました

 世の神父様方はこれを何とも思わないのでしょうか。

 日本国憲法の或る要素を「福音的」とまで言う参照神父様方は "言葉遣い" のこのような情景を「小さな事」と思うのかも知れません。しかし、もしそうなら、私は次のように言いたいと思います。

*******************************

 神父様方、あなた方は「言葉」というものを甘く見ておられる。あまりに物分かりよく用語の意味を拡張することに同意なさる。そんなことでは私達の信仰(天主様の宗教)を護ることはできません。

*******************************

現代世界憲章 (Gaudium et Spes)

日本語版全文(外部サイト、タイプミス多し)

各国語版入口(バチカン公式サイト)

次へ
日記の目次へ
ページに直接に入った方はこちらをクリックして下さい→ フレームページのトップへ
inserted by FC2 system