2014.03.25

現代世界憲章は反キリスト文書である Part 13

私達はカトリック信仰に於ける "通常の言い方"()を保つべきです。

「神の子ら」 「神の家族」 という言葉の意味合いを
教会の外にまで拡げる現代世界憲章

現代世界憲章24

なお主イエズスは、「われわれが一つであるように・・・・みなが一つになるように」(ヨハネ 17・21-22)と父に祈ったとき、人間理性が達することのできない視野を示したのであって、三位の神格の一致と、真理と愛における神の子らの一致との間の、ある類似をほのめかしている。この類似は、そのもの自体のために神が望んだ地上における唯一の被造物である人間が、自分自身を無私無欲の気持ちで与えなければ、完全に自分自身を見いだせないことを表わしている

Indeed, the Lord Jesus, when He prayed to the Father, "that all may be one. . . as we are one" (John 17:21-22) opened up vistas closed to human reason, for He implied a certain likeness between the union of the divine Persons, and the unity of God's sons in truth and charity. This likeness reveals that man, who is the only creature on earth which God willed for itself, cannot fully find himself except through a sincere gift of himself.

 ここに於ける「神の子ら」は「人類」のことであることは既に見ました。Part 1Part 3
 であるから、「真理と愛における」の「真理」というのが「カトリック信仰」を意味していないことは明らかです。何故なら、それが「カトリック信仰」のことであれば、最後に「ほのめかしている」と締められる必要はないからです。つまり、憲章の筆者は「カトリック信仰」の意味でなしに「真理」という言葉を使います

 私は「驚いて下さい! 今、驚くべき時ですよ」と促さなければならないのでしょうか。もう一度言います、彼は「カトリック信仰」の意味でなしに「真理」という言葉を使う人なのです。世の神父様方はこの事だけでも驚かなければならないと思います。
 カトリック聖職者の身にして、「共通善」だけを意味しようとする時に「真理」という言葉を使うのは異常である、と云うことです。

 カトリック聖職者は謂わば「真理」についてのプロなので、「真理」という言葉をその口から出す時、常に十全な意味に於いてその言葉を使わなければなりません。「中途半端」な意味に於いてとか「半欠け」の意味に於てとかではその言葉を使ってはなりません。平信徒の私から偉そうに言われるまでもなく、神父様方は初めからこの事を分かっておられねばなりません。

現代世界憲章32

その宣教においては、神の子らが互いに兄弟として接することを明らかに命じた。その祈りにおいては、すべての弟子たちが「一つ」であるように願った。

In His preaching He clearly taught the sons of God to treat one another as brothers. In His prayers He pleaded that all His disciples might be "one."

 「その宣教においては…」「その祈りにおいては…」という並びから、ここに於ける「神の子ら」と云うのもやはり「人類」を意味しているでしょう。
 しかし、このようなものはイエズス様の "御言葉遣い" ではありませんでした。聖書の中のイエズス様は御自分を「信じる者」と「信じない者」とを対立的にお述べになりました。

同じく、

現代世界憲章32

〔主は〕人類が、法の完成としての愛が支配する神の家族となるよう、諸国民に福音のメッセージを宣教することを使徒たちに命じた。

He commanded His Apostles to preach to all peoples the Gospel's message that the human race was to become the Family of God, in which the fullness of the Law would be love.

 主が「愛」を否定すべくもありません。しかし、主は「愛」だけを説かれたわけではありませんでした。「信仰」をお求めになりました。だから、憲章の筆者の "言い方" は〈虚偽的〉であります。そして、"言い方" が〈虚偽的〉である時、私達はその "人間" にも〈虚偽性〉を "疑う" ぐらいのことはしなければなりません。少しも疑わない人は「お人好し」と呼ばれます。
 「法の完成としての愛」。42番にも「神定法(the divine law)」というのが出て来ましたが、この32番に於いても彼にとって「法」は即ち「愛」であって、「信仰」を含みません。(含んでもいいけれど、「要件」ではないのです。彼にとって。)
 「福音のメッセージ」。これも同様です。彼の言う「福音のメッセージを宣教する」とは「福音(主イエズスの御事)そのものを伝える」と云う事とはちょっと違います。彼は「福音そのものを伝えるのでなくても、或る種の人類理想のために働けば、それで福音を伝えることになる」式の考えに私達を "導く" 者です。(「それでいい」と言うのですか、神父様方。よくお考えになるべきです。)

現代世界憲章40

地上の国と天上の国とのこのような交錯は、信仰によってはじめて理解できるものであり、人類史の神秘であって、神の子らの輝きが完全に啓示される時まで罪によってかき乱される。

That the earthly and the heavenly city penetrate each other is a fact accessible to faith alone; it remains a mystery of human history, which sin will keep in great disarray until the splendor of God's sons, is fully revealed.

 彼は「信仰」を言い、「神秘」を言い、「罪」を憂いてみせます。しかし、私の "犬の直観" によれば、これは彼の「敬虔の装い」です。つまり「仮面」です。「騙されやすいカモ」にならないで下さい。

現代世界憲章 (Gaudium et Spes)

日本語版全文(外部サイト、タイプミス多し)

各国語版入口(バチカン公式サイト)

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