オランダの聖職者達と異端的なオランダ・カテキズム
第二バチカン公会議前、オランダでは、主日のミサへの参加率は80%を超えていた。このパーセンテージは1966年には64.4%、1970年には47.2%、1976年には31.1%と下降した。1978年頃には、7歳以上の登録された全信徒の27.8%しか主日のミサに参加しないという低率を打った。カトリック信仰の破壊の結果は正直にオランダの司教達の肩の上にかかった。
第二バチカン公会議後のオランダの教会は「教会の実験場」に喩えられた。それは腐った種のようだったが、発芽し、そしてカトリック信者の心と精神に毒を注いだ。反抗的に "手による聖体拝領" を促進し続けるモダニスト達の戦術(それはのちには、制御できなかった、それ故「合法化」するしかなかった、と言われたが)は、異端的なカテキズムを広めながら、そして公然と教皇に逆らいながら、世界中で信仰破壊者達のための勝利のレシピとなった。アドリアヌス・シモニス枢機卿が言ったように、「教導権と聖職位階を公然と批判する態度は、やがて全教会に広がることになったが、それは多かれ少なかれオランダから始まった」。
1965: 1965年という早い時期に、バチカンはアルフリンク枢機卿を "手による聖体拝領" という濫用の実践を止めないかどで譴責した。「聖体授与の伝統的な方法を保持してください。(…)教皇様は(…)聖なるホスチアが手に授けられ、そののち信者達がそれぞれの仕方でそれを処理することを適切とは考えておられず、従って伝統的な聖体拝領の方法が世界中で回復されるように会議が適切な解決を提供することを強く勧告しておられます」(1965年10月12日、コンシリウムからアルフリンク枢機卿宛の書簡)
1966: 1966年3月1日、異端的なオランダ・カテキズムはアルフリンク枢機卿から「出版許可(Imprimatur)」を受けた。そしてそれによってオランダの司教達がそれを承認したこと、また彼らがそれに対する表明された信頼を共有し合っていることを示した。オランダ・カテキズムは1966年10月9日までに40万部以上も印刷された。
第二バチカン公会議(Wiki)の閉会は1965年12月8日ということだから、上のコンシリウムからの書簡の日付からすれば、オランダの聖職者達が "手による聖体拝領" を始めたのは公会議の閉会より前から(若干であれ)と云うことになる。
さて、遠慮していたが、最後にこれを置いておく。アンネリーゼ・ミシェルのエクソシズムからである。
1975年10月4日 |
あなたは「アンネリーゼは自分でもオランダのことを知っていたのだ。だからこんな言葉が出たのだ」と考えるだろうか。
前回と今回、表題に「背教者」という言葉を使ったわけだが、人によっては、彼らをそう呼ぶ理由が私のこれらの記事の中に十分示されていない、と考えるかも知れない。しかし、私にとっては前回掲げたオランダ・カテキズムの文章で十分である。あれは「御聖体の内なる主のまことの現存」を信じている人の文章ではない。