2014.05.02

「全実体変化」を信じない司祭  国井健宏神父  Part 4

蛇足 1

 皆さん先刻ご承知、なにも書く必要もないもんだが書くのである。
 否、書くと云うより、表示する。「共同体の奉仕する典礼」の中の国井神父様の言葉と、池長大司教様と関係の深い教会の祭壇周りの画像を、合わせてみる。

それは食卓がだんだんと祭壇になっていきました。ミサの出発点は「最後の晩餐」でした。食事でした。家族が、弟子たち共同体仲間が集まって食卓を囲んで一緒に食事をする。それが中心でした。初期の教会は真ん中に食卓がありました。食卓は四角い1m四方ぐらいのものがあり、その周りをみんな立って囲んでいたようです。各国によって違うものがありますけれども、中心が食卓。

聖イグナチオ教会

神戸中央教会

 Web上の若干の情報を見る時、聖イグナチオ教会の改築の為の教会建設委員会が発足し、最初の工事が着工するまでの間──(1992年〜1995年)──つまりこの間に新聖堂のデザインが確定されるわけだが──池長大司教様も国井神父様も東京に居られたような気がする。実際そうだったかは不確かだけれども、兎に角、国井神父様の言葉と聖イグナチオ教会の祭壇がピッタリ一致しているのは確かである。池長大司教様と国井神父様は「高度な神学」を共有しているに違いない。

蛇足 2

教会憲章

1.(…)教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具であるから、これまでの公会議の教えを守りつつ、自分の本性と普遍的使命とを、その信者と全世界とに、より明らかに示そうとする。

 (英訳版では..  しるし = sign,  道具 = instrument)

 「教会」という「いわば秘跡」であるものが「全人類一致のしるしであり道具」であるならば、「典礼」だって「全人類一致のしるしであり道具」であるという事になる。

 その意味では、池長大司教様の下の御姿は、むしろ教会憲章の言葉(精神)に適っているのである。

レオ池長潤大司教

2001年2月25日 於: 阿倍野教会 参照

 何故ならば、「道具」は「目的」に従属するからである。
 「道具」は「目的」に "供される" からである。

 「全人類一致」が、〈究極的〉な、〈普遍的〉な、それ故ほとんど〈至高〉である「目的」ならば、そのための「道具」や「しるし」である典礼がこうなって何故悪い? ということになるのである。

 だから、今や誰もが余りに簡単に「目的」と「道具」というふうに "分けて" 考えるけれども、天主様に関係する事柄(最も尊い事柄)をまるで世俗の事柄を扱うのと同じように「目的と道具」という単純な二分法で見るのは、危険であるし、賢明でない。

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