2014.05.02

典礼憲章も似たようなものである

 はしたなくも自分の言葉を二つ再掲する。

 私も普段、「御聖体の内なる主のまことの現存(Real Presence)」という言い方をしている。しかし、この「まことの(Real)」というのも言葉であって、考えてみれば危ういものだ。「主は御聖体の内に、御ミサの間だけ居られて、御ミサが終ればもうそこには居られない」と考える人だって、御ミサ中の御聖体に関しては「主のまことの現存(Real Presence)」という言い方をするかも知れないのである。

 彼は「ものの変化」と言いもし、「パンとぶどう酒がキリストの体と血に変わる」参照と言いもするが、本当は、それは彼自身の言葉遣いではないのである。彼はそれらの言葉に拘わらず、トレント公会議や昔の公教要理が言う通りの意味で「ものの変化」を信じているわけではない。もし信じていたなら、「未信者が無知によって拝領してしまった場合、それはだだのパンでしかない」という言い方になる筈がないからである。彼は言葉をいい加減に使っている。曖昧に使っている。テキトーに "流して" いる。

 自分の言葉を再掲するという一種の自画自賛みたいなハシタナイ事をしながら私がどうしても強調したいのは(読者の皆さんに謹んで "ねじ込ませて" 頂きたいのは)「言葉とは実にそれほど危ういものである」という事である。それは多くの「物陰」を持っている。(だからスキレベークスみたいな者も出て来るのである)

 で、その事を確[しか]と踏まえた上でここで確認してみたいのは、典礼憲章が「現存」という言葉を使っている所の "情景" である。

典礼憲章
Sacrosanctum Concilium

7.(典礼におけるキリストの現存) このような偉大なわざを成就するためにキリストは、常に自分の教会とともに、特に典礼行為に現存している。キリストはミサの犠牲のうちに現存している。「かつて十字架上で自身をささげた同じキリストが、今、司祭の奉仕によって奉献者として」司祭のうちに現存するとともに、また特に、聖体の両形態のもとに現存している。キリストは、自身の力をもって諸秘跡のうちに現存している。すなわち、だれかが洗礼を授けるとき、キリスト自身が洗礼を授けるのである。キリストは自身のことばのうちに現存している。聖書が教会で読まれるとき、キリスト自身が語るのである。なお、「わたしの名によって、2・3人が集まるところに、わたしもその中にいる」(マタイ 18・20)と約束したキリストは、教会が懇願し、賛美を歌うときにも現存している。
 事実、神に完全な栄光が帰せられ、人が聖化されるこのような偉大なわざにおいて、キリストは、(…)

英語

 ちなみに、日本語で「現存している」と訳されているところは英語では全て「be present」である。

 さて、公会議文書というものは、勿論、神に対する讃辞に満ちている。上では茶色の斜体にした部分がそれである。しかし、この上下の讃辞に挟まれた中の部分は、「秘跡」の値打ちを下げている。

 何故かと云えば、「教会とともに、特に典礼行為に」から始まって、「教会が懇願し、賛美を歌うときにも」に終わるまで、それら場合の間に主の現存の「程度の差」や「質の違い」があたかもないかのように並列的に書かれているからである。

 再び、こんな感じ。

「御聖体の内」 にも
「賛美を歌うとき」 にも

主が「現存」

 確かに、「聖体の両形態のもとに」には「特に」と、そして「諸秘跡のうちに」には「自身の力をもって(By His power)」と、若干の修飾を付け、強調してはいる。しかしそれでも、最後まで同じ「現存」という言葉で通しているのは、(私はこう思う)「カトリック信者」として普通の感覚ではない。

 特に「聖体の両形態のもとの現存」である。それは「全実体変化」であるところの現存だから、「教会が懇願し、賛美を歌うとき」とはおろか、御聖体以外の「諸秘跡のうち」に於ける現存との間にも、現存の仕方に「程度の差」があるだけではなく、はっきりした「質の違い」がある筈である。然るにこの文章は、その不言及によって、そのような質の違いなどないかのように振る舞っている。

 不言及はほかにもある。
 この憲章の中には「全実体変化(transubstantiation)」という言葉が一度も出て来ない。
 そして、「Presence」に「Real」が付いた「Real Presence」という言い方さえ一度も出て来ない。
 どちらも英文で確認してみて欲しい。ページ内の文字検索の仕方

 それにも拘わらず、これは「典礼憲章」なのである!

* * *

 そのような「不言及」の理由をこの物語に語ってもらおう。

この、いわゆる「パンとぶどう酒におけるキリストの現存」は、間接的に叩く必要がある。真っ向から攻撃すれば、カトリックは反撃してくる。迫害は常に信仰を強化する結果になるので、これほど危険なことはない。

そこで、「現存」の語には触れずに、この信仰を壊す、ないしは弱めるものすべてを解明することが必要だ。

 もう一つ語ってもらおう。

私は、たとえば、彼女〔注: 彼が懇意になったカトリックの女性〕が信じている「御聖体におけるキリストの現存」は、彼女自身の信仰の強さに応じて現存を現わすが、信仰をまったく持たない人には何の現存もないのだ、と冷静に話した。

彼女はこれを認めようとはしなかったが、私にとっては、プロテスタントの範に倣って、彼女をこの流れに乗せることが重要だった。

この「現存」は、そう信じるときのみ存在するに過ぎないのだと彼らに説明する。

 そして──信者よ、刮目せよ──国井神父様はこう言ったのだった。
 「全ての秘跡は信仰を前提としていますので、信仰がなければ秘跡にはなりません。未信者の方が善意の無知で頂いたとしても、恵みにはなるでしょうがだだのパンでしかありません」!!! 参照

独り言

 人々は、疑わしい話を聞かされた時にはこう言う。
 「胡散臭くて信じる気になれない」

 そして、ピタリと符合する話、見事に整合性のある話を聞いた時には、こう言う。
 「出来過ぎていて信じる気になれない」

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