2014.05.02

善意と共にある盲目

「盲目」とは酷い言い方だと思います。しかし、事実だと思います。

「アナムネーシス」

具神父様

キリストの教会が、イエスの最後の晩餐の再現として典礼を行うのも同じである。それは、言葉やしるし(パン、ぶどう酒、水、油)などを使って、二千年前に神がイエス・キリストを通して示された恵みを思い起し(アナムネシス)、同じ恵みが今もなお聖霊によって与えられていることを、体験をもって確認するプロセスだからである。キリストの教会にとって、典礼とは、記憶とともに生きておられる神様に出会う、禁煙の標識のようなものである。

参照

国井神父様

「これをわたしの記念として行いなさい」の記念はギリシャ語のアナムネーシスです。日本語では記念ということばは過去のことに使われますが、イエスがおっしゃったアナムネーシスは「このことをあなたがたの心に刻んで忘れるな」ということで、ただ昔のことを思い出しなさいということでなく、イエスがどのような生き方をなさり、どのような死に方をしてければならなかったか、どこまで仕えるものとなり、どこまで自分を徹底的に与え尽くされたか、このことを一時たりとも忘れてはならない、心に刻んでおけという意味です。

参照

 しかし、イエズス様がその御言葉「これをわたしの記念として行いなさい」(ルカ 22:19)を仰せられた場は「聖体の制定」の場だったのである。だから、その御言葉は明らかに、第一義的に、その後その儀式を通して "信ずる者ら" にお与えになるだろう〈超自然的〉な恩恵と直接に結び付いていた筈である。然るにこれらの司祭達は不思議にもその結び付きを後退させる。そしてイエズス様がその不思議な制定の場で「アナムネーシス」という言葉(そのようにギリシャ語に訳されることになった言葉)で私達に〈精神的〉な訴えしか投げ掛けておられなかったかのように言う。

 国井神父様は「それは単に『思い出せ』ということではなく、『思い出し、そして心に刻んで忘れるな』という意味だ」と言う。しかし、それでもそれが〈精神的〉なものであることには変わりがない。

 国井神父様がするような「秘跡」についての解釈参照は、信者らに「生き方の変更」を強く求めるから、一見「善」に見られ易い。しかしそれは──簡単な言い方をしよう──「秘跡 - それ自体」を見ないのであるから、「秘跡 - それ自体」の "尊さ" を見ないのである。

「体験」

 同じ箇所である。

具神父様

キリストの教会が、イエスの最後の晩餐の再現として典礼を行うのも同じである。それは、言葉やしるし(パン、ぶどう酒、水、油)などを使って、二千年前に神がイエス・キリストを通して示された恵みを思い起し(アナムネシス)、同じ恵みが今もなお聖霊によって与えられていることを、体験をもって確認するプロセスだからである。キリストの教会にとって、典礼とは、記憶とともに生きておられる神様に出会う、禁煙の標識のようなものである。

参照

 私は、「典礼」と「体験」のこの取り合わせに、ひどく違和感を覚える。
 と云うのは、現実的に言って信者は、秘跡の外観、儀式の外形(正に「しるし」の要素・側面)からは、そんな「体験」と言えるほどの「体験」を得ないからである。そして、それでいいからである。

(もしどうしても神の恵みを「体験」したければ、1987年の NICE のように、御ミサを「楽しいもの」「感動的なもの」に改変しなければならないのではないか?)

 そう、それでいいのである。「体験」と言えるほどの「体験」はなくていい。何故なら、私達は「秘跡」にも「典礼」にも「信仰の心」で向かうからだ。

 もちろん「秘跡」は「しるし」の要素がなければ「秘跡」にならない。しかし、「秘跡」に於ける「しるし」は、ただそれと知られていればいいものであって、「体験的」と言えるほどのものである必要はない。

 むしろ「典礼」と「体験」はそんなに強く結び付いてはならない。何故ならば、もし「秘跡」という事に関して「体験」がそんなに大事で必要と云うなら、「全実体変化」という真理は私達の「秘跡」の世界から弾き出されてしまうからだ。私達は「全実体変化」を肉の眼で確認(体験)できたりはしないのだから。しかし、そこを信じるのが「信仰」なのである。

 だから、司祭は信徒の前で「典礼」と「体験」を結び付けてみせるのでなく、「典礼」と「信仰」をこそ結び付けてみせなければならない。
 こんな事は一昔の司祭にとっては当り前であり、ほとんど常識的な感覚で首肯できる事であった筈だ。しかし、現代の司祭方はどこかおかしくなってしまって、国井神父様の使う「主役」という言葉じゃないけれど、典礼というものを、何かこう、人間が肉の目と心で "完全に確認" でき、"感動" でき、"体験" できるところの「演劇」か何かのようなものでなければならないかのように考えているのではないか。

 演劇は確かに人間を楽しませ、人間に serve するものである。しかし、「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるため(である)」(聖マタイ 20:28)と主が仰せられたからと云って、典礼をどこかしら "人間のための演劇" のようにする(看做す)ならば、あなた方は浅ハカである。

 もちろん典礼は、人の霊魂を感動させる力を持っている。神の御恵みを知らせる力を持っている。しかし、それに殊更「体験」という語を当てることは、どこかしら「地上的」であり「人間中心的」である。
 「五官(肉の感覚)で "確認" できたり "体験" できたりしないものはあまり顧慮するに値しない」かのような方向に行きかねない。
(既に行ってるだろう)

「宇宙に満ちる」

池長大司教様

東アジアのキリスト教はヨーロッパを経て来たので、いつしか父性面を強調しすぎる傾向を持ってしまっているのではないでしょうか。宇宙に満ちる神、信仰によって人々に内在する神、全てを抱擁し包み込む神、神の愛の普遍性、神の限りない優しさ、ゆるしの大きさ、十字架でキリストがすべての人のあらゆる罪を償われたという救済論、これらは聖書が描く神そのものの姿です。

参照

具神父様

典礼におけるキリストの現存を理解するために、まず確認しておくべきことがある。それは「典礼とは、二千年前に生きたナザレのイエスと、歴史的、物理的に出会う場所ではなく、復活によって存在の様態を変えられ宇宙に満ちているキリストに出会う場である」ということである。

参照

 このような言い方・見方はあまりに単純である。参照

「キリストの現存」を拡げてしまえ!
どこもかしこも「現存」だ!
キリストは「宇宙に満ちる」のだ!

だから、司祭は今やほとんど「お役御免」だ!
既に "人々のために" それを自ら望む司祭すら居る!

聖体もそれほど特別なものとは思われなくなるだろう。
否、既にそうなっている!

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