2014.06.12

ユダヤの影響 3

注)あまり神経質にならずに、単純に「ユダヤ」と言うことにします。しかしもちろん、ユダヤ人の全てが悪いと言っているわけではありません。
それから、私たちは「偽ユダヤ人」ということも覚えておかなければならないでしょう。黙示録の 2:9 と 3:9 と ケストラー があるからです。

『ノストラ・エターテ』の起草にはブナイ・ブリスの指導者が関わっていた。そしてその導き手はアウグスティン・ベア枢機卿であった。

キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言(ノストラ・エターテ)とブナイ・ブリス

 上は以前紹介したブナイ・ブリスの会員証明書に第二バチカン公会議の一つの文書の表題を重ねたものである。しかしこれは単に陰謀論好きの人間が気ままに二つのものを重ね合わせたということではない。ここにはかなりの程度、このようにして然るべき理由がある。第二バチカン公会議文書『ノストラ・エターテ(キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言)』の起草にはブナイ・ブリスの指導者が関わっていたらしいのである。

 或る一人のカトリック教徒と思われるブロガーが、幾つかの記事を集めながら、バチカンとユダヤの関係を探っている。(ちなみに、私がこの記事を見つけたのは「B'nai B'rith Augustin Cardinal Bea」という文字列で検索していた時だった)

 例によって管理人のコメントを差し挟みながら表示する。しかし、いちいち(続き)とは書かないけれども、内容に省略したところはない。画像と〔 〕は管理人による付加。
 まずはブロガーによる表題から。

Maurice Pinay

第二バチカン公会議文書『ノストラ・エターテ』の
ブナイ・ブリスの共著者が死去

2007年10月29日

 私達はこの表題に驚かなければならない。彼は『ノストラ・エターテ』には「ブナイ・ブリスの共著者」が居たと言うのである。もしブナイ・ブリスがフリーメイソンであれば、『ノストラ・エターテ』は「フリーメイソン製」であるも同然という事になる。
 もちろんこの事をバチカンが認めているわけではないし、このブロガーが引用している幾つかの記事が言っているわけでもない。彼は全体の経緯から「実質的にそうである」と言いたいのである。

 彼はまずワシントン・ポスト紙から引用する。

Washington Post

エルンスト・エールリッヒ、86歳、ユダヤ宗教哲学者

Associated Press
2007年10月25日(木) Page B07
ジュネーヴ

エルンスト・ルートヴィヒ・エールリッヒ

 エルンスト・ルートヴィヒ・エールリッヒ(Ernst Ludwig Ehrlich)。ナチスを逃れ、キリスト教徒とユダヤ人の間のヨーロッパの橋渡し役になったユダヤ宗教哲学者が亡くなった。86歳だった。

家族がスイスの新聞に語ったところに依ると、エールリッヒはこの日曜、リーエン(バーゼル郊外)の自宅で亡くなった。

ベルリン生まれのエールリッヒは、ナチスが1942年にそれを閉鎖するまで、ユダヤ学高等研究所(〈ラビ〉レオ・ベックのラビ養成校)で学んだ。

彼がベルリンの一夫婦と共に避難し、スイスに密入国するまで、ナチスは彼に労働を強いた。

彼はバーゼルで博士号を取得し、その後スイスとドイツの大学で教えた。1961年から1994年まで、彼はブナイ・ブリス(1843年にニューヨークで設立)のヨーロッパの指導者だった。

第二バチカン公会議で、1965年に、彼は「ノストラ・エターテ」(ローマ・カトリック教会とユダヤ人の関係に関する重要な文書)を準備することに於いてドイツのアウグスティン・ベア枢機卿のアドバイザーとして働いた。

ポツダム(ドイツ)のアブラハム・ガイガー・カレッジの学長である〈ラビ〉ウォルター・ホモルカ(Walter Homolka)は、エールリッヒのことを「ホロコースト前のユダヤ人の遺産への橋」であり、重要な自由主義思想家であるとして賞讃した。

エールリッヒはユダヤ教に関するいくつかの本の著者であり、ベルリン自由大学によって「科学者の世代に影響を与えた人物」と認められている。

エールリッヒは妻と娘を残して亡くなった。

The Way to Unity After the Council by Augustin Cardinal Bea S.J (1967)

Augustin Cardinal Bea,
S.J. (1881-1968)
(写真は1967年の著作)

 だから、私は次の三つの等式は真だと思う。

 ① 「ベア枢機卿のアドバイザー」=「ブナイ・ブリスの指導者」
 ② 「ベア枢機卿」=「フリーメイソン」リスト
 ③ 「ノストラ・エターテ」=「ユダヤ/フリーメイソン文書」

 (ベア枢機卿はユダヤ人でもあるらしい)

 ブロガーは次にロンドン・タイムズ紙から引用する。

The Times

(…)異宗教間対話のパイオニアとしてエールリッヒは、第二バチカン公会議に於ける最も有力なローマ・カトリック者の幾人かを知っており、その者らと共に働いた。1965年、彼は「ノストラ・エターテ」(ユダヤ/カトリック関係に関して新たな開始を確立するのを助けた文書)の準備に於いてアウグスティン・ベア枢機卿のアドバイザーの一人だった。最も重要なのは、その文書が「ユダヤ人はキリストの死に関して責任がある」とする長年の告発を拒否したことだった。スイスの枢機卿フランツ・ケーニッヒ博士と共に、彼は彼らがキリスト教徒とユダヤ人の間で共有されるべき未来というものをどう見るかについての一文書を発表した。その本「Die Juden und Christen haben eine Zukunft(The Jews and Christians have a future)」は異宗教間対話に関するもう一つの重要文書となった*。エーリッヒはまた、転向ユダヤ人であるフランスの枢機卿ジャン=マリー・ルスティジェ(追悼記事:2007年8月9日)の親友でもあった。

*〔訳注: その本ははっきりと「共著」となっているわけではないようだ(amazon)。しかし、ロンドン・タイムズがそう言うのだから(こんな時だけマスコミを信じるわけではないが)、全くの「共著」ではなくても、何かそれに類した事実があるのだろう。〕

両者はそれぞれの信仰の間の関係を改善することに疲れを知らずに取り組んだ。そして、両者共に母親をアウシュヴィッツで亡くしているという事実が、両者を一層近づけた。

2000年、エールリッヒは教皇ピオ9世を列福しようとする動きに声を挙げて反対した(彼は同教皇の反セム主義を非難した)。彼は、そのような動きはローマ・カトリックとユダヤ教の関係を改善することにつぎ込まれて来た努力を台無しにするものであると主張した。(…)

ブナイ・ブリス(ユダヤ人のフリーメーソン組織)のメンバー、エルンスト・ルートヴィッヒ・エールリッヒは、1975年1月の7日から10日にかけてローマで開かれた「International Catholic/Jewish Liaison Committee(国際カトリック/ユダヤ連絡委員会)」の第4回年次総会で、一人の専門家としてそこに居た。参照(バチカン公式

そしてまた、2001年5月の1日から3日にかけてニューヨークで開かれた同委員会の第17回目の会議にも居たのである。その時の主要テーマは「悔悟と和解」であった。参照(バチカン公式

 だから、その「委員会」(検索)がある限り、バチカンはブナイ・ブリスと(つまりフリーメイソンと)仲良く膝突き合わせて「対話」することだろう。

 ブロガーは最後に或る書籍から引用して記事を終わる。

もし人が1964年の投票(「ノストラ・エターテ」の承認についての)によって判断すべきならば、1300人の公会議の司教と司祭たちの心の内にあったジュール・イサック(Jules Isaac)、ブナイ・ブリス、そして世界ユダヤ人会議らの望みの方が、福音記者たちよりも、聖アウグスティヌスよりも、聖ヨハネ・クリゾストムよりも、大聖グレゴリウスよりも──そして事実上、全ての教会博士たちや教皇たち(今日、ジュール・イサックその他によって事実上有害なものとして非難されている教義を念入りに作り上げた人達)よりも──重かったのである。

Vicomte Leon De Poncins "Judaism and the Vatican" p.130

アウグスティン・ベア枢機卿

ベア枢機卿

 これまでも何度か言ったことだが、私は「人の顔貌にはかなりの程度、その人の内面が表われる」と思う。私はこの人の顔に「狡猾さ」を感じる。(同意してくれる人は多いと思う)

 最後の書籍からの引用の中に「ジュール・イサック(又はアイザック)」という人の名が出て来たが、それは次回の記事の中にも出て来る。

 なお、以上のような情景を見ても、神父様方はこう仰るかも知れない。「『ノストラ・エターテ』の成立にブナイ・ブリスの指導者が何らかの形で絡んでいたとしても、また更に、そのブナイ・ブリスなるものがフリーメイソンと何らかのコネクションを持っていたとしても、それだけでは『ノストラ・エターテ』の決議、その文章が悪いとは言えない。或る決議、或る文書の良し悪しは、あくまでその内容それ自体による」と。
 ならば、のちほど『ノストラ・エターテ』の内容について見ることにしよう。

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