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2014.06.26

『ノストラ・エターテ』 欺瞞のレトリック Part 1

 以前言っておいたように、『ノストラ・エターテ』の文章について検討してみたい。先ずは私のコメントなしに全文を表示しておく。

 ちなみに、『ノストラ・エターテ』は短いが、それでも私はそれ全部は手打ちしなかった。多くはソットコルノラ神父(参照: 平和のためにイエズスを隠す)の真命山のサイトにあるもの(参照)を利用させて頂いた。

キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言

1965年

司教パウルス

神のしもべたちのしもべ
聖なる公会議の諸教父とともに
ことを永久に記念するために

 1(序文) 人類が日を追っていっそう緊密に結ばれ、諸国民間の関係が増大しつつある現代にあって、教会は、キリスト教以外の諸宗教に対する自分の態度についていっそう注意深く考察する。教会が、人々の間に、また、諸国民の間に、一致と愛を育てる自分の職務を果たすにあたって、人間に共通で、相互の友交に役立つことがらを、ここで特に考察する。

 事実、すべての民族は一つの共同体であり、唯一の起源を持っている。神が全人類を地の全面に住まわせたからである注 1。また、すべての民族は唯一の終極目的、すなわち、神を持っている。神の摂理と慈愛の証明、さらに救いの計画は、選ばれた者が聖なる都に集められる日がくるまで、すベての人に及ぶ注 2。そこ(聖なる都)には神の栄光が輝き、そこで諸国民は、神の光の中を歩くようになる注 3

 人びとは種々の宗教から、昔も今も同じように人の心を深くゆさぶる人間存在の秘められた謎に対する解答を期待している。その謎は、人間とは何か、人生の意義と目的は何か、善とは何か、罪とは何か、苦しみの起源と目的は何か、真の幸福を得るための道は何か、死後の審判と報いとは何か、そして最後に、われわれの存在を包み、われわれがそこから起こり、また、そこに向かって行く究極の名状しがたい神秘は何か、ということである。

 2(キリスト教以外の諸宗教) すでに古代から現代に至るまで、種々の民族のうちには、自然界の移り変りと人生の諸事件の中に現存する神秘的な力について、一種の知覚が見られ、時には最高の神、あるいは父なる神についての認識さえも認められる。この知覚と認識は深い宗教的情操となってその国民の生活に浸透している。ところで、進歩した文化と結びついている宗教は、より深遠な概念や、いっそう洗練された言語によって、同じ問題に答えようとしている。たとえば、ヒンズ一教において、人びとは、汲み尽くすことができないほど豊かな神話と、哲学上の鋭敏な努力をもって神の神秘を探求し、表現する。また、かれらは、あるいは種々の様式の修行生活、あるいは深い瞑想、あるいは愛と信頼をもって神のもとに逃避することによって、われわれの存在の苦悩からの解放を求めている。仏教においては、その種々の宗派に従って、この流転の世が根本的に無常であることが認められ、人が忠実と信頼の心をもって、あるいは完全な解脱の状態に至る道、あるいは自力または他力によって最高の悟りに到達する道が教えられる。これと同じように、世界中に見いだされる他の諸宗教も、種々の道、すなわち、種々の教儀と戒律と儀式を提示することによって、いろいろな方法で人間の心の不安を解消しようと努力している。

 カトリック教会は、これらの諸宗教の中に見いだされる真実で尊いものを何も排斥しない。これらの諸宗教の行動と生活の様式、戒律と教義を、まじめな尊敬の念をもって考察する。それらは、教会が保持し、提示するものとは多くの点で異なっているが、すべての人を照らす真理の光線を示すこともまれではない。しかし、教会はキリストを告げているし、また絶えず告げなければならない。「道、真理、生命」(ヨハネ 14・6)であるキリストにおいて、人は宗教生活の充満を見いだし、キリストにおいて神は万物を自分と和睦させた注 4

 したがって、教会は自分の子らに対して、キリスト教の信仰と生活を証明しながら、賢慮と愛をもって、他の諸宗教の信奉者との話し合いと協力を通して、かれらのもとに見いだされる精神的、道徳的富および社会的、文化的価値を認め、保存し、さらに促進するよう勧告する。

 3(イスラム教) 教会はイスラム教徒をも尊重する。かれらは唯一の神、すなわち、自存する生きた神、あわれみ深い全能の神、天地の創造主注 5、人々に話しかけた神を礼拝している。また、イスラム教の信仰がすすんで頼りとしているアブラハムが神に従ったのと同じように、神の隠れた意志にも全力を尽くして従おうと努力している。かれらはイエズスを神と認めないが、預言者として尊敬し、その母である処女マリアを称賛し、時には敬虔に彼女に祈る。かれらはさらに、よみがえったすべての人に、神が報いを与える審判の日を待っている。したがって、かれらは道徳的生活を尊び、特に祈りと施しと断食によって神を礼拝している。

 諸世紀にわたる時代の流れにおいて、キリスト教徒とイスラム教徒の間に少なからざる不和と敵意が生じたが、聖なる教会会議は、すべての人に過ぎ去ったことを忘れ、互いに理解し合うよう、まじめに努力し、また社会正義、道徳的善、さらに平和と自由を、すべての人のために共同で守り、促進するよう勧告する。

 4(ユダヤ教) この聖なる教会会議は教会の秘義を探求しつつ、新約の民とアブラハムの子孫とを霊的に結んでいる絆(きずな)を思う。

 実にキリストの教会は、自分の信仰と選びが、神の救いの秘義に従って、すでに太祖とモーセと預言者のもとで始まったことを認めている。すべてのキリスト信者は、信仰によってアブラハムの子であり注 6、太祖アブラハムが受けた召命の中に包含され、選民が隷属の地から脱出したことの中に、教会の救いが神秘的に予告されていると信じている。したがって教会は、神が言い現わしがたい慈悲によって、この民と旧約を結び、この民を通して旧約の啓示を受け、異邦人である野生のオリーブの枝がよいオリーブの木につぎ木されて注 7、その根で養われていることを忘れることができない。事実、教会は、われわれの平和であるキリストが、十字架を通してユダヤ人と異邦人を和解させ、両者を自分のうちにひとつにしたことを信じている注 8

 また、教会は、使徒パウロが自分の同胞について述べたことばをも常に念頭においている。「子としての身分も、栄光も、契約も、律法も、礼拝も、数々の約束も、かれらのもの、また父祖も、かれらのものであり、肉によれば、キリストもまた、かれらから出たのである」(ローマ 9・4~5)。キリストは処女マリアの子である。教会はさらに、教会の土台であり支柱である使徒と、世界にキリストの福音を告げた多くの最初の弟子がユダヤ民族からの出身者であったことを想起する。

 聖書が証言している通り、エルサレムは訪れの時を知らず注 9、また、ユダヤ人の大部分は福音を受け入れず、なお少なからざる者が、福音の宣布に反対さえした注 10。それにもかかわらず、使徒パウロによれば、ユダヤ人は、その父祖のゆえに今もって神にとって、はなはだ愛すべきものである。神のたまものと召命は後悔のもとになるものでない注 11。教会は預言者と使徒パウロとともに、神だけが知っている日、すべての民が声を合わせて主に祈り「肩を並べて主に仕える」(ソフォニア 3・9)日、を待っている注 12

 このように、キリスト者とユダヤ人に共通の霊的遺産は非常に大きいものであるから、この聖なる教会会議は、特に聖書研究や神学研究や親密な話し合いによって得られる相互理解と尊重を深めるよう望み、勧める。

 ユダヤ人の権力者と、その追従者がキリストに死を迫ったが注 13、無差別にその当時のすべてのユダヤ人に、また今日のユダヤ人に、キリストの受難の際に犯されたことの責任を負わせることはできない。教会は神の新しい民であるが、そのためにユダヤ人が神から排斥された者であるとか、のろわれた者であるとかいうことが、あたかも聖書から結論されるかのように言ってはならない。したがって、すべての人は、教理の説明や神のことばの宣教にあたって、福音の真理とキリストの精神に合わないことを、何も教えないように注意しなければならない。

 そのうえ、だれに対するものであっても、すべての迫害を非難する教会は、ユダヤ人との共通の遺産を記憶し、また政治的な理由からではなく、宗教上の福音的愛にかりたてられて、ユダヤ人に対する憎しみ、迫害、反ユダヤ主義の運動を、それが、いつ、だれによって行なわれるものであっても、すべて嘆き悲しむ。

 ともかく、教会がこれまで常に主張してきたし、今も主張している通り、キリストは、限りない愛をもって、すべての人が救いを得るよう、すべての人の罪のために、苦難と死をすすんで受けた。したがって、キリストの十字架を神の普遍的な愛のしるしとして、また、あらゆる恩恵の泉として告げることが、宣教する教会の務めなのである。

 5 神の姿に似せて造られた人間の中の一部の人々に対して、われわれが兄弟として振舞うことを拒否するならば、われわれはすべての人の父である神に呼びかけることはできない。父なる神に対する人間の態度と、兄弟である人に対する人間の態度は、聖書の中に「愛さない者は神を知らない」(1ヨハネ 4・8)と言われるほど密接に結ばれているのである。

 それゆえ、人と人の間、民族と民族の間に、人間の尊厳とそれに基づく諸権利に関して差別を導入するすべての理論や実践は、根拠のないものである。

 したがって教会は、民族や人種、身分や宗教の違いのために行なわれるすべての差別や圧迫を、キリストの精神に反するものとして退ける。それゆえ、聖なる教会会議は、使徒聖ペトロと聖パウロの足跡をたどりつつ、キリスト信者に向かい、「諸国民の中にあってりっぱな行ないをしながら」(1ペトロ 2・12)、できるかぎり、すべての人と平和を保つよう注 14切願する。そうすれば、かれらはまことに、天にまします父の子となるであろう注 15

ロ一マ聖ペトロのかたわらにて
1965年10月28日
カトリック教会の司教 パウルス自署
(諸教父の署名が続く)

1.

使徒行録 17・26.

2.

智恵の書 8・1; 使徒行録 14・17; ローマ 2・6〜7; 1テモテ 2・4 参照。

3.

黙示録 21・23 以下参照。

4.

2コリント 5・18〜19 参照。

5.

聖グレゴリウス7世「マウリタニア王アンズィルへの書簡」: ed. E. Caspar in M G H, Ep. Sel. II, 1920, I, p. 288, 11-15; PL 148, 451 A 参照。

6.

ガラチヤ 3・7 参照。

7.

ローマ 11・17〜24 参照。

8.

エフェソ 2・14〜16 参照。

9.

ルカ 19・44 参照。

10.

ローマ 11・28 参照。

11.

ローマ 11・28〜29参照; 第2バチカン公会議『教会憲章』第16条: AAS 57 (1965) p.20 参照。

12.

イザヤ 66・23; 詩編 65・4; ローマ 11・11〜32 参照。

13.

ヨハネ 19・6 参照。

14.

ローマ 12・18 参照。

15.

マタイ 5・45 参照。

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