2014.06.26

『ノストラ・エターテ』 欺瞞のレトリック Part 2

 では、『ノストラ・エターテ』の文章について私の思うところを書いてみたいと思う。

キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言

1965年

 1(序文) 人類が日を追っていっそう緊密に結ばれ、諸国民間の関係が増大しつつある現代にあって、教会は、キリスト教以外の諸宗教に対する自分の態度についていっそう注意深く考察する。教会が、人々の間に、また、諸国民の間に、一致と愛を育てる自分の職務を果たすにあたって、人間に共通で、相互の友交に役立つことがらを、ここで特に考察する。

全文  英訳  ラテン語

「人類が日を追っていっそう緊密に結ばれ、
諸国民間の関係が増大しつつある現代」

 これがこの宣言の書き出しである。
 第二バチカン公会議文書らしい書き出しである。

 教会憲章の書き出しにも次のような言葉がある。
 「社会・技術・文化の種々のきずなによって今日、より強く結ばれているすべての人が(…)

 この宣言が書かれた時代、1960年代というのは、確かに世界が大きく変わった時代だったろう。その変化の根底には、やはり科学技術の発展があっただろう。「交通」の面では、旅客機が国と国とをいよいよ盛んに結び始めただろうし、「情報」の面では、やはりテレビの普及が大きかっただろう。各国の首脳達の交流の場面が、それを通じて世界に流されただろう。宇宙開発も進みつつあった。ガガーリンは既に「地球は青かった」と言っていた。世界は人の目に、確かに「小さく」なりつつあっただろう。

 しかし、世界がそのように科学技術の進歩によって一面「小さく」なったようでも、それによって「人心」までもが互いに「緊密」と言える程の関係になったかと云えば、そうではないだろう。60年代というその時代に於いても、大きな戦争は過ぎたと云っても「冷戦」の状態にあったわけだし、世界には大小の紛争が絶えなかったことだろう。

 人類とは常にそのようなものである。それは現在の私達の時代に関して考えてみれば一層明らかである。科学技術の進歩は60年代の比ではないが、私達の世界には「緊密な関係」があるばかりではなく、それは「疎遠な関係」もあるわけだし、「敵対」だって多々あるのである。

 そういう所から言えば、この宣言の書き出しは、実は時代に関わらず、若干かかなりか、「一面的」と言えるものだろう。

 事実、すべての民族は一つの共同体であり、唯一の起源を持っている。神が全人類を地の全面に住まわせたからである(注 1)。また、すべての民族は唯一の終極目的、すなわち、神を持っている。神の摂理と慈愛の証明、さらに救いの計画は、選ばれた者が聖なる都に集められる日がくるまで、すベての人に及ぶ(注 2)。そこ(聖なる都)には神の栄光が輝き、そこで諸国民は、神の光の中を歩くようになる(注 3)

1.

使徒行録 17・26.

2.

智恵の書 8・1; 使徒行録 14・17; ローマ 2・6〜7; 1テモテ 2・4 参照。

3.

黙示録 21・23 以下参照。

全文  英訳  ラテン語

「すべての民族は一つの共同体である」

 前回取り上げた「共同体」という言葉が登場した。

 私は、この何気なく置かれた小さな宣言──「すべての民族は一つの共同体である」──に、第一段落からもう一つ強まった「一面的」なものを、一面的な「強調」を、見るのである。理由は、上に言ったのと同じで、およそ(或いは、必ずしも?)人類世界の実態に即した言い方ではないからである。

 ここで一つ、改めて「共同体」という言葉を考えてみて頂きたい。あなたは「共同体」と聞いた場合、ご自分の言語感覚で、どのようなものを思い浮かべるか?

 私なら、アーミッシュみたいなものを思い浮かべる。ちょっと極端な連想ではないかと思われるかも知れないが、しかしその「共同性の緊密さ」によって、それは確かに「共同体」の典型と思われていいものである筈である。或る事典も「共同体」を説明して「生活の共同性が著しい社会集団」と言っている。

 もちろん私も、この言葉「共同体」にも、他のあらゆる言葉と同様、相当の厄介な意味の拡がりがあることを知らないわけではない。しかし兎に角、もしこの言葉をその初期的なイメージ「共同性の著しさ」と結び付けて考えるならば、この「宣言」が言うようにはとても言えないであろうというのは確かである。

 何故なら、既に言ったが、現実的に云って人類世界には、国家間、民族間に「緊密な関係」があるばかりではないからである。「疎遠な関係」だってあるわけだし、「敵対」だって「溢れんばかりにある」と言ってもいい位のものである。

 つまり、この筆者は、彼が読者の目に印象づけたいところの(と私は思う)「人類の結び付きの緊密さ」を、「共同体」という言葉によって更に強調したのである。

 さてしかし、純真な善意の人達は言うだろう。「確かにそれは一つの強調かも知れない。しかしいずれにせよ、それは善意による強調なのだ」と。そしてまた、こう言うだろう。「或る種の見方をすれば、全人類、地球上の全民族は、確かに一つの共同体である」と。

 では、それはどんな「見方」なのか?

 「宇宙船地球号」みたいな見方である。私達がロケットで飛び立ち、宇宙空間から「地球」を見、それを「一つ」と見、それに「宇宙船地球号」と名付けるような。

 或いは、所謂「核戦争」を想像し、「大規模なそれが起これば、人類は死滅してしまうかも知れない。そういう意味では、地球上の全てが『運命共同体』だ」と見るような。

 そのような "巨視的" な見方である。ディテールを遠ざけたところの。

 私もそのような見方が必ずしも悪いとは思わない。それどころか、基本的に、素朴な所で、必要と思う。しかし、そのような見方があたかも「全て」であるかのように思うならば、それは私達にとって一つの陥穽となるだろう。特に私達の「信仰」にとって。
 そして、それ自体が陥穽であるばかりでなく、そのような純真さ、感じ易さを、悪人達(悪徳思想家達)は利用するだろう。彼らはあなたの「不安」や「恐れ」を掴み、あなたを彼らの思う方向に引っ張って行くだろう。

 私が思うに、そうするためにこそ、彼らは「共同体」という言葉を "採用" したのである。そして「シオンの議定書」の言うように、彼らの言葉を意識的に「組み立て(compose)」ているのである。(しかし、後述するように、その幾つかは「空疎さ」が際立っている。お里が知れる)

 その言葉「共同体」はあなた(神父様方)にとって「事実の言葉」としてよりもたぶん圧倒的に「希求の言葉」としてあるだろう。彼らは、その言葉によってあなたの「希求」が膨れ上がり、それによってあなたが宗教の違いを「乗り越える」ための愛と勇気と盲目を持つに至るよう、全てを仕向けたのである。(議定書の言う「directing」である)

「一つ」

 その同じ段落にまだ観察できる事がある。日本語訳では目立たないが、英語訳では「one」は三回繰り返されているのである。しかもそれら全てが倒置によって強調されている。

One is the community of all peoples, one their origin, for God made the whole human race to live over the face of the earth. One also is their final goal, God.

 そして、その文章は次の四つのものから成り立っている。

All  Final  One  God

 それは以前『現代世界憲章』の中に見た言い方と同じである。

現代世界憲章 22参照

すべての〕人間の究極的召命は実際にはただ一つ、すなわち神的なものである。

ノストラ・エターテ 1

すべての民族は唯一終極目的、すなわち、を持っている。

 「究極的(ultimate)」だの「終極的(final)」だのと云った言葉を使いながらのこれらの言い方は、ただ「言ってみればそうなる」というだけの話である。驚くほど空疎な言葉である。
 この宇宙に神がおわすならば、全人類・全民族の究極的・終局的なゴールは「神」であらねばならない、「神」である筈である、というのは、余りに「当り前」の事である、余りに「一般的」な叙述である。であるから、これらは言語表現として殆ど存在価値がない。

「空疎だと何故イケナイのだ?」と言う神父様も居るかも知れない。「言葉」というものに表面的な「正誤」しか見ず、上のこれらに対しても「これは間違っていない」とのみ思う神父様が。そのような神父様は「人間」というものをよく知らないのである。

 以上これだけでも、『ノストラ・エターテ』が『現代世界憲章』と非常に近い文書であることが感じられる。しかし、あなたはまだ、以上見て来たことの中に、「悪どい」と云うほどのものは感じていないだろう。しかし、更に見て行こう。

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