2014.06.26

『ノストラ・エターテ』 欺瞞のレトリック Part 4

聖句の歪曲利用の確実なる証拠

 彼らは「レトリックを弄する蛇」である。
 或いは、「煙と共にある言葉」の提示者、である。その言葉は変である。しかし、即座の否定を困難にさせるものを持っている。(世の神父様方はぼ〜〜〜っと読み、結果、マインド・コントロールされている)

 4(ユダヤ教) この聖なる教会会議は教会の秘義を探求しつつ、新約の民とアブラハムの子孫とを霊的に結んでいる絆(きずな)を思う。

 実にキリストの教会は、自分の信仰と選びが、神の救いの秘義に従って、すでに太祖とモーセと預言者のもとで始まったことを認めている。すべてのキリスト信者は、信仰によってアブラハムの子であり(注 6)、太祖アブラハムが受けた召命の中に包含され、選民が隷属の地から脱出したことの中に、教会の救いが神秘的に予告されていると信じている。したがって教会は、神が言い現わしがたい慈悲によって、この民と旧約を結び、この民を通して旧約の啓示を受け、異邦人である野生のオリーブの枝がよいオリーブの木につぎ木されて(注 7)、その根で養われていることを忘れることができない。事実、教会は、われわれの平和であるキリストが、十字架を通してユダヤ人と異邦人を和解させ、両者を自分のうちにひとつにしたことを信じている(注 8)

6.

ガラチヤ 3・7 参照。

7.

ローマ 11・17〜24 参照。

8.

エフェソ 2・14〜16 参照。

全文  英訳  ラテン語

「すべてのキリスト信者は、信仰によってアブラハムの子であり(注 6)、太祖アブラハムが受けた召命の中に包含されている」

「包含され」
 この「包含されている(included)」という言い方がいやらしいと思うのである。「包含されている」と言えば、なにか「太祖」(つまりユダヤ人)の方が "大きい" かのような印象を与える。数学記号で言えば「⊂」である。
 しかし、そんな言い方(或いは、与える印象)はどこか間違っている、と私達は感じる。しかし、それでいて「確実に間違っているか」と言われれば、そうは言い切れないような気もして来る。斯くして私達はこの「包含」という言葉に戸惑い続ける。「Yes」とも「No」とも言えずに。なにか宙ぶらりん。そんな状態を余儀なくされる。だから「いやらしい」のである。
 しかし「戸惑う」ならまだマシである。多くの人は「太祖(ユダヤ人)の方が "大きい" かのような印象」をまともに与えられて終わるだろう。それが彼らがその言葉(「包含」)を使った理由だろう。

「信仰によってアブラハムの子」
 そして、「すべてのキリスト信者は、信仰によってアブラハムの子であり(注 6)」というのも問題である。
 どういうことかと云うと、注の引き方が不正なのである。「注 6」はこう示している、「ガラチヤ 3・7 参照」。
 では、聖書のその箇所を見てみよう。

ガラテヤ人への手紙 第3章  7〜10節

バルバロ訳

 7  だから、信仰する者はアブラハムの子であることを、理解せよ。8  聖書は、神が信仰によって異邦人を義とされることを予知し、あらかじめアブラハムによい便りをつげ、「あなたにおいて、すべての民は祝福される」といった。9  従って、信仰者のアブラハムによって祝福されるのは、信仰をもつ人である。10  しかし、律法のおこないだけを支持する人々は呪いのもとにいる。

フランシスコ会訳

 7  したがって、信仰をよりどころとする者こそアブラハムの子である、と悟りなさい。8  聖書は、神が異邦人を信仰によって正しい者とされるということを見越して、「異邦人はすべておまえのゆえに祝福されるであろう」とアブラハムに前もって福音を告げているのです。9  それで、信仰をよりどころとしている人は、信仰の人アブラハムとともに祝福されています。10  律法に定められた業に頼る者は皆、のろいの下[もと]にあります。

 ご覧のように、そこには確かに「アブラハムの子」という言葉がある。しかし、その言葉を使いながら聖パウロが言っているのは、フランシスコ会訳聖書が正[ただ]しく見出しを付けているように、「律法か信仰か」という問題に関してである。「救いの要件は何か。律法か信仰か。信仰である」。聖パウロは、当時キリスト者になりたてのユダヤ人達、その心の中に「律法」への拘りがまだ残っているユダヤ人達に対して、彼らにとって親しくまた尊敬の対象であったアブラハムを「律法よりも信仰によってこそ神に嘉された人」と打ち出すことによって、彼らが神と人との旧契約から新契約へとその意識を転換することを促したのである。彼が「アブラハムの子」という言葉を出したのはそのような意味合いと目的に於いてであったのであり、その教示の対象はキリストを信じるに至ったユダヤ人達、今日で言う「改宗ユダヤ人」達であった。

 ところが『ノストラ・エターテ』は、聖パウロのその言葉を本来の意図や場面や文脈から切り離し、そのひと続きの言葉の中から「信仰する者はアブラハムの子である」という小さな断片のみを切り取り、「改宗ユダヤ人」達の前ではなく「すべてのキリスト信者」の前に置くのである。これによってどういう事が起こるか。
 聖パウロの言葉はその時、「キリスト教はその源をユダヤ教に負っている(或る意味で前者は後者に "包含" される)」と云ったような意味或いは印象を強化するために役立てられるのである。そういう事が起こっている。

 以上は「注 6」の事である。その参照指示が不適切だという事である。見かけは小さな事である。しかし、もし宣言筆者がこれを分かった上でやっていたなら、これは「不適切」ではなく「不正」であり、大きな事である。聖書の言葉の不正使用であるから。"歪曲利用" であるから。「反キリスト的な裏切り」と言われても仕方がないであろう。
 あなたはまだこれを「可能性」のうちに置くかも知れない。しかし『現代世界憲章』による聖書の言葉の歪曲利用を思い出して頂きたい。参照

注)「キリスト教はその源をユダヤ教に負っている」という事は或る意味で本当ではないか、などと言わないで頂きたい。私は上で、文章上の一種の「偽作」のことを言ったのである。

 以上は、はっきりとした、直接的な「歪曲利用」と言えるもの、についでであった。
 以下は、直接的な歪曲利用とまでは言えないだろうが、聖書の言葉を利用した「印象操作」とは十分に言えるもの、についてである。

 もう一度同じ箇所を貼る。下線は管理人による付加。

 4(ユダヤ教) この聖なる教会会議は教会の秘義を探求しつつ、新約の民とアブラハムの子孫とを霊的に結んでいる絆(きずな)を思う。

 実にキリストの教会は、自分の信仰と選びが、神の救いの秘義に従って、すでに太祖とモーセと預言者のもとで始まったことを認めている。すべてのキリスト信者は、信仰によってアブラハムの子であり(注 6)、太祖アブラハムが受けた召命の中に包含され、選民が隷属の地から脱出したことの中に、教会の救いが神秘的に予告されていると信じている。したがって教会は、神が言い現わしがたい慈悲によって、この民と旧約を結び、この民を通して旧約の啓示を受け、異邦人である野生のオリーブの枝がよいオリーブの木につぎ木されて(注 7)その根で養われていることを忘れることができない。事実、教会は、われわれの平和であるキリストが、十字架を通してユダヤ人と異邦人を和解させ、両者を自分のうちにひとつにしたことを信じている(注 8)

6.

ガラチヤ 3・7 参照。

7.

ローマ 11・17〜24 参照。

8.

エフェソ 2・14〜16 参照。

全文  英訳  ラテン語

 もちろん上の文章に真実と云える部分が一つもないと云うことではない。しかし私達は「悪魔は9割の真実に1割の偽りを混ぜる」と云った格言を、悪魔のためだけに取っておくべきではないのである。

 「アブラハムの子」という言葉の歪曲利用ほどではないにしろ、宣言は他にも、聖書の言葉をちょいちょいと安直に並べることによって、文章の「印象」を作っているようである。
 聖書の実際の言葉との引き比べなしに上のこれらの言葉を読む時、あなたの目に「よいオリーブの木」とか「その根」という言葉が、「ユダヤ人」或いは「ユダヤ教」のことを指しているように映らないだろうか?
 そして、そのような、与えられた「印象」は、真に聖書の言葉と一致しているのだろうか?

 宣言自身が「注 7」として「ローマ 11・17〜24 参照」と指示しているので、その辺りを見てみよう。
 聖パウロは今度はキリスト者となった異邦人に対して言う。
 (引用はフランシスコ会訳のみとするが、不足はないだろう)

ローマ人への手紙 第11章  13〜24節

(フランシスコ会訳)

 13  さて、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であればこそ、この奉仕を尊び、14  なんとかして同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救おうとしています。15  彼らの捨てられることが、世界と神との和解をもたらすのなら、彼らが受け入れられることは、死者の中からの復活でなくしてなんでしょうか。
 16  麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうです。が聖なるものであれば、枝もそうです。17  しかし、枝のあるものが折り取られ、野生のオリーブであるあなたがその代わりに接ぎ木され、元の木の根から来る豊かな養分にあずかっているからといって、18  元の木の枝に対して誇ってはなりません。たとえ誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、があなたを支えているのです。19  すると、あなたは、「枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。20  確かにそのとおりです。彼らは不信仰ゆえに折り取られましたが、あなたは信仰によってしっかりと立っています。思いあがってはいけません。むしろ、恐れなさい。21  神が、自然のままに生えた枝を惜しまなかったとすれば、あなたをも惜しむことはないでしょう。22  ここに神の慈しみと厳しさがあります。倒れた者に対しては厳しさがあり、あなたがその慈しみにとどまっているかぎり、あなたに対しては神の慈しみがあります。もし、とどまらないならば、あなたも切り落とされるでしょう。23  一方、彼らも不信仰にとどまり続けないなら、接ぎ木されるでしょう。神は彼らを再び接ぎ木することができるのです。24  あなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、手を加えて栽培されているオリーブに接ぎ木されたとすれば、まして、もともと栽培されているオリーブの枝は、どれほどよく再び元の木に接ぎ木されることでしょう。

 比喩表現を多用した聖パウロのこれらの言葉に於いて、何が何を指しているかは完全に明確なわけではない。例えば「根」という言葉だが、それは単純に「ユダヤ人」のことを指していないだろう。しかし「神とユダヤ人との交わりの歴史」を指している可能性はあるかも知れない。また「神」そのものを指している可能性もあるかも知れない。或いはもっと抽象的に「源」ということを意味しているのかも知れない。何にせよ、今ひとつ判然としない。
 しかし明確な事もある。それは、主イエズスを信じないユダヤ人の事を、聖パウロが「不信仰ゆえに折り取られた枝」と言っている事、決してそのままでいいのではなく新たに接ぎ木されなければならない枝、再び接ぎ木されれば野生の枝よりもずっとよく付くが、とにかく接ぎ木され、神との交わりが回復されなければならない枝、として描いているという事である。これは明確な上にも明確な事である。
 しかるに『宣言』はこのような事にはまったく触れない。それどころか、言葉の漠然たる配置によって、主イエズスへの信仰の有る無しに関係なくとにかくユダヤ人はよいものだという "印象" を醸しているようである。私はこれも一種の「不正」(不正操作)だろうと思う。

 次に宣言は「注 8」を指示しつつ「事実、教会は、われわれの平和であるキリストが、十字架を通してユダヤ人と異邦人を和解させ、両者を自分のうちにひとつにした(made both one)ことを信じている」と言っている。「注 8」は「エフェソ 2・14〜16 参照」と示している。では、その辺りを見てみよう。

エフェソ人への手紙 第2章  11〜16節

(フランシスコ会訳)

 11  そこで、かつてあなたがたは、肉体に関しては異邦人であり、人の手で肉体に施す、いわゆる割礼を受けた者たちから「無割礼者」とさげすまれていたことを思い出しなさい。12  その当時、あなたがたには「キリスト」のあてもなく、イスラエルの共同体とは無縁であり、神の約束を繰り返し述べる契約とはかかわりがなく、この世にあって希望もなく、神もない者でした。13  しかし、かつてこれらのことから遠く離れていたあなたがたは、今や、キリスト・イエズスに結ばれ、キリストの血によって近くにいるものとなりました。
 14  実に、キリストご自身こそ、わたしたちの平和であり、互いに離れていた二つのものを一つにしたかたです。キリストは、ご自分の体によって、人を隔てていた壁、すなわち、敵意を取り除き、15  かずかずの規定を伴うおきてから成る律法を無効にし、二つのものをご自分に結びつけることによって、一人の「新しい人」に造りあげ(11)、平和を実現しました。16  すなわち、キリストは十字架によって、互いに離れていた二つのものを一つの体とし、神と和解させてくださいました。ご自身において敵意を根絶させられたのです。

(11)二コリント 5:17参照。

コリント人への第二の手紙 第5章  16〜17節

 16  したがって、わたしたちは、今後だれをも「肉」の立場から知ろうとはしません。「肉」の立場でキリストを見知ったことがあったとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。17  ですから、だれでもキリストと一致しているなら、新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、今は新しいものが到来したのです。こういうことはすべて、神に由来しています。

 確かに聖パウロは「実に、キリストご自身こそ、わたしたちの平和であり、互いに離れていた二つのものを一つにした」と言っている。しかしここに言う「一つにした」というのは、ユダヤ人と異邦人との間で「救われの条件」が同じになった、差異がなくなった、神がそうして下さった、という意味である。決して、主イエズスに対する信仰の有る無しに関係なく兎に角「ユダヤ人」と「異邦人」とを一つにした、という意味ではない。
 また「和解」というのも同じであって、これまでは「救われの条件」の内にある者(ユダヤ人)と外側にある者(異邦人)という差異があったが故に両者の間に敵意があったが、今やそのような差異がなくなったので敵意の種も取り去られた、という意味である。しかしこれは、主イエズスに対する信仰の有る無しに関係なく兎に角の「ユダヤ人」と「異邦人」との間のことを言っているのではない。
 こんな事は私が解説するまでもなく自明の事である。しかるに『宣言』はスットボケて、あたかもユダヤ教徒であるままのユダヤ人とキリスト者が「キリストによって和解させられ、一つとされた」かのように書いている。

 以上見て来たように、この『宣言』には、
 (1)明らかな聖句の歪曲利用、
 (2)聖句の漠然たる配置による印象操作、
 この二つがある。

 しかし、世の神父様方は、多少もじもじしながらも、次のように言うのか?

「しかし、地上のユダヤ人とキリスト教徒が仲良くするために、
私達は聖書の言葉をそのように読んでもいいでしょう?」

 しかし、あなたがそのように言うならば、あなたは聖書に従って生きるのではなく、一種の「外交文書」のようなものに従って生きることになるのである。(「対話」の危険はここにある)

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