2014.06.26

『ノストラ・エターテ』 欺瞞のレトリック Part 7

 『ノストラ・エターテ』そのものについては終わった。しかし、上の表題は変えないでおく。

一般的な「宗教精神」の模範であるマリヤ

 『ノストラ・エターテ』の精神を讃える或る一人の気の毒な教皇が次のように祈ったようである。

宗教精神の模範であるマリヤに祈ります。
あらゆる宗教の信奉者たちが、神を見つめて生き、
各自の信じる真理の要求に忠実であるよう、
励ましてください。

 聖母は今や「御子イエズスへの信仰の模範」ではなく、広く一般的に「宗教精神の模範」となったのである。

 『ノストラ・エターテ』に関連して一つの記事を発見した。そこには或る教皇様の言葉とされるものが紹介されている。かつてオプス・デイの精道教育促進協会が発行していた(即ち今は廃刊されている)『教皇様の声』という月刊誌の1997年6月10日号(206号)に載せられていたものだと云う。文書の日付からすればヨハネ・パウロ2世教皇様の言葉ということになる。ここにその部分を転載させてもらう。

ローマ・カトリック教会には、「教皇様の声」という月刊紙があります。この機関紙(1997年6月10日)206号に次のような記事があります。紹介しましょう。

 教会はすべて真であるものを受け入れる

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん。「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」(以下「宣言」と略す)は、第2回バチカン公会議文書の中でも一番短いものですが、その重要性と新しさを見逃すことはできません。それはキリスト信者と他の宗教の信奉者が互いに敬意をもって対話をし、人間の真の福利のために協力し合う道を示しています。

 不幸なことですが、かつては宗教上の確信のもとに敵対がありました。「宣言」は、神こそが人類の兄弟愛の確固たる基礎であることを思い起こさせてくれます。「すべての民族は一つの共同体であり、唯一の起源をもっている。また、すべての民族は唯一の終局目的、すなわち神を持っている。神の摂理と慈愛の証明、さらに救いの計画はすべての人に及ぶ。」

 この確信が真理という概念を相対化するものであってはならないのは当然です。ですから教会は託身した神の子キリストのみが「道、真理、生命」(ヨハネ14:6)であり、キリストにおいてのみ、人は宗教生活の充満を見い出す(「宣言」2参照)のだ、と新たな熱意を込めて伝え広めることを自らの義務としています。

 しかし、このことが多くの宗教に見られる前向きな要素を過小評価することにつながってはなりません。「宣言」は特にヒンズー教や仏教、イスラム教その他の伝統宗教の霊的豊かさについて触れています。

 「カトリック教会は、これらの諸宗教の中に見出される真実で尊いものを何も排除しない。これらの諸宗教の行動と生活の様式、戒律と教義を、まじめな尊敬の念をもって考察する。それらは教会が保持し、提示するものとは多くの点で異なっているが、全ての人を照らす真理の光線を示すことにも稀ではない」

 「宣言」は、キリスト教がとりわけ深い関係を持つユダヤ教の兄弟たちに対して、特別な注意を向けています。じつにキリスト教信仰は、ユダヤ民族の宗教体験に端を発し、キリスト自身もその民族の一人だったからです。聖書のうち旧約と呼ばれる部分は、カトリック教会もユダヤ教も共通です。教会は今も同じ真理の遺産から生命を汲み、キリストの光に照らして読み返します。キリストが新しい永遠の契約によって開いた新時代の始まりは、この古い根を滅ぼすのではなく、普遍的で豊かな実りをもたらすものでした。この事実を考えてみれば、キリスト教とユダヤ教の間にしばしば起こった緊張状態は、深い悲しみであると言わざるを得ません。今日も「ユダヤ人に対する憎しみ、迫害、反ユダヤ主義の運動を、それがいつ、誰によって行われるものであっても、すべて嘆き悲しみ」(「宣言」4番)と述べた公会議の声を、私たち自身のものとしなければなりません。

 宗教精神の模範であるマリヤに祈ります。あらゆる宗教の信奉者たちが、神を見つめて生き、各自の信じる真理の要求に忠実であるよう、励ましてください。

 教会がマリヤの取り次ぎと助けによって真理への忠実な証言と、全ての人との対話を両立させることができますように。また、全ての宗教信奉者たちが互いに理解し、尊敬することを学び、神の御旨に沿った平和と普遍の兄弟愛を築くため、共に働くことができますように。

(97・1・14)

 最後の(97・1・14)は無論「1997年1月14日」の意味だろう。教皇様は、その日にスピーチされたか、その日付で文章をお書きになったかしたのだろう。
 しかし、書かれたもの(回勅等)なら日本語以外でもネットの中に見つかってもいいようなものである。しかし私はこの日付と文中の幾つかの言葉でネットを検索してみたが、日本語ではその記事一つ(コピペされたものを含めれば二つ)が見つかるだけであり、英語では見つからなかった(英語以外の他言語ではよく分からない)。だから、これはおそらく何処かでのスピーチだろう。
 いずれにせよ、これを紹介しているサイトは出典をきちんと示しているし、教皇様の言葉とされるこの文章はしっかりしたものなので(内容ではなく)、実際、『教皇様の声』の中に掲載されたものなのだろう。

 以上。

 なお、そのサイトは紹介しない。
 何故なら、そのサイトは基本的に非カトリックであるから。

 (プロテスタントの中にも、現在のカトリック教会の異常に気づいている人達が居る。彼らの指摘が正いこともある。今のカトリックは、実際、自分の教会を誇れない。しかし、それでも、それは天主様の真の唯一の教会である)

後日追記
『教皇様の声』を掲載しているページを見つけた。ココ
206号 を確認してみると、上で見た通りの言葉があった。

 参考: 上の前年である1996年のヨハネ・パウロ2世教皇様

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