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2014.07.16

悪魔の腐った舌 『信教の自由に関する宣言』 Part 1

激し過ぎる表題? そんな事はない筈です。一緒に見て下さい。

 イヴ・コンガールの言葉について触れた所参照で言っておいたように、『信教の自由に関する宣言』の文章について検討してみたい。

 ちなみに、『ノストラ・エターテ』と時と同じく、私はこれをほとんど手打ちしなかった。ネットに既にあるものを利用させて頂いた。

信教の自由に関する宣言
Declaration on Religious Freedom

ディグニタティス・フマネ
Dignitatis Humanae

1965年

司教パウルス

神のしもべのしもべ
聖なる公会議の諸教父とともに
ことを永久に記念するために

宗教問題における社会および
市民の自由に対する個人およ
び団体の権利について

1(序文) 現代において、人々は人格の尊厳を日増しに意識するようになっている注 1。また、強制されることなく、義務感に導かれて、自分の判断と責任ある自由とによって行動することを要求する者の数がふえてきた。同じように、個人や団体の正当な自由の領域が大きく制限されないように、公権の法的限定を要請している。人間社会におけるこのような自由の要求は、主として、人間精神の価値、特に、社会における信教の自由な実践に関する事がらに向けられている。このバチカン教会会議は、人間のこのような熱望を注意深く考慮し、それが、どれだけ真理と正義とに合致するかを明らかにするため、教会の聖なる伝承と教説を探求し、そこから、古いものと常に一致した新しいものを引き出す考えである。

 それで、聖なる教会会議は、まず第一に、人間が神に仕えながら、キリストにおいて救われ、そして幸福になれる道を神自身が人類に知らせたことを宣言する。われわれは、この唯一の真の宗教が、カトリック的、使徒的教会の中に存続すると信じる。主イエズスは使徒たちに、「行って万民に教え、父と子と聖霊との名によって洗礼を授け、わたしがあなたがたに命じたすべてのことを守らせよ」(マタイ 28・19〜20)と言って、この宗教をすべての人に広める任務を教会に託した。一方、すべての人は、真理、特に、神とその教会に関する真理を探求し、それを知ったうえは、それを受け入れ、そして守る義務がある。

 同時に、聖なる教会会議は、このような義務が人々の良心に達して、これを束縛すること、また真理がやさしく、そして強く心にしみ込む真理そのものの力によらなければ義務を負わせないことも宣言する。ところで、人間が要求する信教の自由は、神を礼拝するという自分の義務を果たすにあたって、市民社会におけるいっさいの強制からの免除に関するものである。そのため真の宗教とキリストの唯一の教会とに対する個人および団体の道徳的義務に関する伝統的なカトリックの教説はそのまま変わりがない。なお、教会会議は、信仰の自由を取り扱うにあたって、人格の不可侵の権利と社会の法的秩序に関する最近の諸教皇の教えを展開する考えである。

1 信教の自由の一般原則

2(信教の自由の目的と基礎) このバチカン教会会議は、人間が信教の自由に対して権利を持つことを宣言する。この自由は、すべての人間が、個人あるいは社会的団体、その他すべての人間的権力の強制を免れ、したがって、宗教問題においても、何人も、自分の確信に反して行動するよう強制されることなく、また私的あるいは公的に、単独にあるいは団体の一員として、正しい範囲内で自分の確信にしたがって行動するのを妨げられないところにある。なお信教の自由の権利は、人格の尊厳に基づくものであり、神の啓示のことばと理性そのものとによって認識されることを宣言する注 2。信教の自由に対する人格のこの権利は、社会の法的制度において、市民的権利として受け入れられるべきものである。

 すべての人間は、人格、すなわち、理性と自由意志を備え、したがって個人的責任を帯びるものであり、自分の尊厳のゆえに、真理、特に、宗教的真理を探求する本性にかられ、また道徳的に義務を負わされている。そして、真理を認めた場合、これにとどまり、真理の要求にしたがって自分の全生活を規正する必要がある。しかし、人間は、心理的に自由であるとともに、外的強制を免れなければ、自分の本性にかなった方法で、この義務を果たすことはできない。したがって、信教の自由は、人間の主観的状態ではなく、その本性に基づくものである。したがって、外的強制からの免除の権利は、真理を求め、これを受け入れる義務を果たさない人にも存続し、またこの権利の行使は、正当な治安を乱さない限り、妨げられてはならない。

3(信教の自由および人と神との関係) 神が英知と愛をもって、全世界と人間社会に秩序を立て、これを指導し、統治するために設けた神的な、永遠の、客観的、普遍的な法が、人間生活の最高の規範であることを考える者にとって、上に述べたことは、いっそう明らかに現わされている。神は、人間が神の摂理のやさしい計画によって、不変の真理をよりよく認めることができるように注 3、自分の法に人間をあずからせている。したがって、人間は皆、適当な手段によって、賢明に、自分の良心の正しい、そして真の判断を形成するために、宗教に関する真理を探求する義務と権利をもっている。

 真理は、人格の尊厳とその社会性とに固有の方法、すなわち、教導あるいは教育、交流および対話による自由な探求によって、求めなければならない。このような方法によって、真理探求の面で互いに協力するため、自分が発見したか、あるいは発見したと思うことを他の者に説明する。そして、認識した真理に、個人的な承認をもって堅くそれに同意しなければならない。

 しかし、人間は自分の良心を通して神法の命令を知り、そして認める。それで、自分の目的である神に到達するには、すべての行為において、忠実に自分の良心に従わなければならない。したがって、自分の良心に反して行動するよう強制されてはならない。また、特に、宗教の分野において、自分の良心に従って行動することを妨げられてはならない。実際、宗教の実践は、その性質上、第一に、人間が自分を神に関係づける任意で自由な内的行為にある。このような行為は、単なる人間的権力によって命じられたり、妨げられたりしてはならない注 4。人間の社会性そのものが、内的敬神の行為を外部に表現し、宗教の分野で他の人と交わり、団体的に宗教を奉じることを要求する。

 したがって、正当な治安が保たれる限り、社会における宗教の自由な実践を人間に拒むことは、人格と、神が人間のために立てた秩序を傷つけることになる。

 なお、人間が自分の判断によって、私的または公的に自分を神に関係づける宗教行為は、その性質上、地上的、現世的秩序を超えるものである。そのため、公権の本来の目的は現世的共通善を配慮することにあり、当然市民の宗教生活を認め、奨励しなければならないが、宗教行為を指導または妨害することができると考えるならば、公権の限界を超えていると言わなければならない。

4(宗教団体の自由) 各個人が持つ宗教問題における自由、すなわち、強制からの免除は、団体的に行動するものにも認められなければならない。実際、人間と宗教そのものとの社会性に基づいて宗教団体が要求される。

 したがって、このような団体は、正当な治安の要求が傷つけられない限り、固有の規則によってその団体を治め、最高の神を公に礼拝し、団体員の宗教生活の営みを助け、教えをもって養い、また団体員が自分たちの宗教的原理に基づく生活の向上のための協力機関を促進するなどの自由を享有する権利を持っている。

 また宗教団体は自分に固有の聖職者の選択、教育、任命、転任について、国外に存在する宗教上の長上、および宗教団体との連絡について、宗教建造物の建築について、必要な財産の獲得と使用について、俗権の法的措置または行政処分によって妨害されない権利を持っている。

 なお宗教団体は、自分の信仰を言論および出版物をもって公に教え、また宣布することを妨げられない権利を持っている。しかし、信仰を広め、習慣を取り入れる場合は、強制もしくは不当な、あるいはあまり正しくないと思われる説得などのすべての行為を避けなければならない。無教育者あるいは貧困者に関する場合、特にそうである。そのような行動方法は、自分の権利の乱用、他人の権利の侵害と考えなければならない。

 さらに、宗教団体が、社会に秩序を立て、人間の全行動に活力を与えるために、その教義の特殊な力を自由に発揮することを妨げられないことも、信教の自由に属している。最後に、人間が自分自身の宗教心に動かされて、自由に集会を持ち、教育的、文化的、慈善的および社会的団体を作る権利も、人間の社会性と宗教の性質そのものに基づいている。

5(家庭における信教の自由) すべての家庭は、固有の、本源的権利をもつ社会として、親の指導の下に、その宗教生活を自由に営む権利を持っている。それで、親は、自分の宗教的信念に基づいて、子女が受ける宗教教育の種類を決定する権利を持っている。したがって、学校あるいは他の教育機関を真の自由をもって選択する親の権利が、公権によって認められなければならない。この選択の自由が、直接にも間接にも親に不当な負担がかけられる理由となってはならない。なお、子女が親の宗教的信念に一致しない授業への出席が強制されたり、宗教教育を完全に除去したただ一つの教育制度を押しつけられたりすれば、親の権利は侵害される。

6(信教の自由を保護する義務) 社会の共通善は人間が、いっそう完全に、いっそう容易に自己完成に到達できるような社会生活の諸条件の総和である。そして、これは、特に、人格の権利と義務の保護にある注 5。そのため市民も、社会的団体も、公権も、教会その他の宗教団体も、共通善に対するおのおのの義務によって、おのおのに固有の方法で、信教の自由の権利を守るよう注意する必要がある。

 人間の不可侵の権利を保護し、増進することは、本質的にすべての公権の義務である注 6。したがって、公権は、正しい法律と他の適切な手段によって、効果的にすべての市民の信教の自由を保護し、宗教生活を助長するために有利な条件を作る必要がある注 7。それは市民が真に信教の権利を行使し、その義務を果たし、また社会自体も、神とその意志とに対する人間の忠実さによってもたらされる正義と平和の恩恵を享受することができるようにするためである。

 国民の特殊な事情を考慮して、国の法的制度において、特殊の宗教団体に特別の地位が認められている場合にも、すべての市民と宗教団体とに信教の自由の権利が認められ、尊重されなければならない。

 要するに、公権は社会の共通善に属する市民の法律上の平等が、宗教的理由によって、公的または私的に侵害されないよう、また市民の間に差別が設けられないように配慮する必要がある。

 それゆえ公権は、暴力または脅迫その他の手段によって、市民に対して、特定の宗教の信奉または放棄を強制したり、あるいは、だれかがある宗教団体に加入し、またはそれから脱退することを妨げることは許されない。まして、人類全体、またはある地方、一定の集団において、宗教を撲滅しあるいは弾圧するために暴力が用いられることは、それがどのような形であっても、神の意志と個人および家庭の神聖な権利に反する行動である。

7(信教の自由の限界) 信教の自由の権利は、人間社会において行使される。したがって、その権利の行使は、ある抑制的な規定の下に置かれる。

 すべて自由の使用にあたって、個人的、社会的責任の道徳原理が守られなければならない。すなわち、個人も社会団体も、他人の権利と他人に対する自分の義務とすべての人の共通善とを考慮すべき道徳的義務を負わされている。正義と愛とをもってすべての人に接しなければならないからである。

 なお市民社会は、信教の自由の口実の下に起こりうる弊害に対して自衛権をもっているため、それを保護するのも、特に公権の任務である。しかしこれは、独断的に、あるいは、不当に一派の利益をはかるためではなく、客観的な道徳原理に一致した法規に従って行なわれなければならない。このような法規は、すべて市民の権利の有効な保護と、権利の平和的調和維持すなわち、真の正義に基づく秩序正しい共存と、公徳の正しい遵守とによって要請される。これらすべては、共通善の根本要素を成し、公の秩序の概念にはいる。社会において完全な自由の習慣が守られ、人間にできるだけ大きな自由を認め、必要な場合と必要な程度だけ制限すべきである。

8(真の自由尊重の育成) 現代人は種々の圧力を加えられ、自分の自由な判断を失う危機にさらされている。しかし、他方では、多くの者が自由を口実に、いっさいの従属を退け、正当な服従を軽んずる傾向を持っている。

 そのため、本バチカン教会会議は、すべての人、特に、教育の任に当たる人たちに次のことを勧める。道徳的秩序を尊重して、正当な権威に従い、真の自由を愛する人間、すなわち、自分の考えで真理に照らして物事を判断し、責任感をもって自分の行動を決定し、すべて真実かつ正当なことを達成することに努め、他人と快く協調する人間の養成に努めることである。

したがって、信教の自由は人間が社会生活において自分の義務を果たすにあたり、より強い責任をもって行動することに寄与し、またそれを目的としなければならない。

2 啓示に照らして見た信教の自由

9(信教の自由の教えは啓示に基づいている) 本バチカン教会会議が信教の自由に関する人権について宣言することは、幾世紀の経験によって、人間の理性にいっそう明らかになった人格の尊厳の要求に基づくものである。その上、自由に関するこの教えは、神の啓示に基づいているため、キリスト者は他の人々以上に、この教えを忠実に守らなければならない。実際、啓示は、宗教問題における外的強制からの自由の権利について断定していないが、人格の尊厳を十分に示し、人間が神のことばを信ずる義務を果たす時の自由をキリストが尊敬したことを表わし、また師キリストの弟子たちが、自分のすべての行動において、心に留め、守らなければならない精神を教えている。これらすべてが、信教の自由に関するこの宣言の教えの土台となる一般原則を明らかにしている。特に、社会における信教の自由は、キリスト教の信仰の行為〔の自由〕と完全に一致するものである。

注)上の〔の自由〕は当サイト管理人による付加。英語訳にもラテン語原文にもその語がある。

10(自由と信仰行為) 神のことばに含まれ、教父たちから常に説かれた注 8カトリック教義の主要点の一つは、人間は自由意志をもって信ずることにより神に答えなければならない、ということである。したがって、何人といえども、自分の意志に反して信仰を受け入れるよう強制されてはならない注 9。実際、信仰行為は、その性質上、自由意志による行為である。なぜなら、救い主キリストからあがなわれ、イエズス・キリストによって神の養子として召された注 10人間は、父に引かれ注 11、信仰の合理的な、そして自由な服従を神にささげなければ、自分自身を啓示する神に同意することはできない。そのため、宗教の問題においては、人間からのあらゆる種類の強制が除かれることが信仰の性質に完全に一致する。したがって、信教の自由の制度は、人々が拘束されずにキリスト教の信仰に導かれ、自発的に受け入れ、生活の全面にわたって、それを実践できるような環境を作るために少なからず貢献する。

11(キリストおよび使徒たちの模範) 神は自分に霊と真理とをもって仕えるよう人々招いている。そのため、人間は良心において束縛されてはいるが、強制されてはいない。実際、人間は自分の判断で行動し、自由を行使するが、神は自分自身が創造した人間の尊厳を考慮する。このことは、神が自分自身とその道とを完全に現わしたイエズス・キリストにおいて最もよく示されている。実際、われわれの師であり主でもある注 12心の柔和で謙遜なキリストは注 13、弟子たちを忍耐強く招き、召し出した注 14。もちろん、奇跡をもって自分の説教を裏づけ、確証したが、それは、聴衆に信仰を起こさせ、それを強めるためであって、圧力を加えるためではなかった注 15。なお、聴衆の不信仰を非難したことも確かであるが、それに対する罰は、審判の日まで神に残した注 16。使徒たちを世に派遣するとき、「信じ洗礼を受ける者は救われ、信じない者は罰せられるであろう」(マルコ 16・16)とかれらに言った。しかし毒麦が麦といっしょにまかれていることを認め、世の終わりに行なわれる収穫の時まで、どちらも成長するにまかせるよう命じた注 17。政治的なメシアになり、力による支配者になることも望まず注 18、自分が「仕えるため、多くの人のあがないとして自分の生命を与えるために」(マルコ 10・45)来た人の子であると言うことを好んだ。キリストは、「傷ついた葦を折らず、くすぶる燈心を消さない」(マタイ 12・20)神の完全なしもべの姿で現れた注 19。「セザルのものはセザルに返し、神の物は神に返せ」(マタイ 22・21)と、セザルに対する納税を命じ、公権とその諸権利を認めたが、はっきりと、その上の神の権利を尊重するように教えた。最後に、十字架上で、あがないのわざを成就し、人々に救いと真の自由とをもたらし、その啓示を完成した。キリストは真理に証明を与えたが注 20、それを反対者に力づくで押し付けなかった。実際、その国は敵を打つことによって守られるのではなく注 21、真理を証明し、これを聞くことによって打ち建てられ、十字架に上げられたキリストが、人間を自分に引きつける愛によって発展する注 22

 キリストのことばと模範によって教えられた使徒たちは、同じ道を歩いた。教会の初めから、キリストの弟子たちは、強制や福音にふさわしくない手段によらないで、まず、神のことばの力によって注 23、人々に主キリストを認めさせ、回心させるように努めた。彼らは力強く、「すべての人が救われて、真理を認めるようになることを望む」(1 テモテ 2・4)神である救い主の計画をすべての人に説いた。しかし、同時に、弱い人たちに対しては、たとえかれらが誤っていても、尊敬し、そうすることによって「われわれひとりひとりが自分のことを神の前に報告しなければならないこと」(ローマ 14・12)注 24、すなわち、自分の良心にだけ従う義務があることを示している。キリストと同じように使徒たちも、常に神の真理を証明しようと努め、非常に大胆に民衆と王侯との前で、「確信をもって神のことば」(使徒行録 4・31)注 25を告げた。実際、かれらは、福音がこれを信ずる者にとって真に救いをもたらす神の力であると堅く信じていた注 26。そのため、すべての「肉的武器」注 27を軽んじ、キリストの柔和と謙虚の模範に従い、神のことばの神的力にまったく信頼して、このことばをのべ、神に反対する勢力をくじき注 28、人々をキリストの信仰と、服従へ導いた注 29。師と同様、使徒たちも国家の正当な権威を認めていた。聖パウロは「権威で神から出ないものはない」と教え、次のように命じた。「すべての者は上の権威に従わなければならない。……権威にそむく者は神の定めにそむく者である」(ローマ 13・1〜2)注 30。しかしそれとともに、神の聖なる意志に逆らう公権に反対することを恐れなかった。「人間に従うより、神に従うべきである」(使徒行録 5・29)注 31。数えきれない程の殉教者や信者が幾世紀の間、全地にわたって、この道を歩いた。

12(教会はキリストおよび使徒たちの模範に従う) 福音の真理に忠実な教会は、信教の自由の原則が、人間の尊厳と神の啓示とに合致するものと認め、それを促進する場合、キリストと使徒たちに従うものである。教会は、師と使徒たちから受けた教えを長い世紀にわたって守り、伝えてきた。人間の歴史を通って旅を続ける神の民の生活の中には、福音の精神にあまりふさわしくない行動、または、それに反するものさえあった。しかし、何人にも信仰を強制してはならないというのが、教会の一貫した教えであった。

 福音の酵素は、人間が時代を下るにつれて、しだいに人格の尊厳を一般に認め、宗教問題において、人間がいかなる強制からも自由でなければならないという確信が熟するために、長い間作用し、大きく貢献した。

13(宗教団体の権利) 教会の利益、さらには地上の国の利益にかかわりをもち、いたる所において常に保護され、あらゆる危害から守られるべきものの中で、最も貴重なものは、教会が人類の救いの事業を遂行するために必要な自由を持つことである注 32。実際、この自由は、神のひとり子が、自分の血をもってかち得た教会に与えた聖なるものである。確かに自由は教会に固有のものであり、この自由を攻撃する者は、神の意志に反して行動することになる。教会の自由は、教会と公権およびすべての社会秩序との関係の根本原理である。
 教会は主キリストから建てられ、全世界に行って、すべての被造物に福音をのべる義務を神から負わされている精神的権威者として、人間社会において、またすべての公権の前で、自由を要求する注 33。教会はまた、キリスト教の信仰の掟に従って市民社会に生活する権利をもつ人々の社会としても、自由を要求する注 34

 そのため、信教の自由の制度が、単に口で宣言されまた法で定められるだけでなく、誠意をもって実行に移されるならば、その時に、教会は、法律上および事実上安定した条件と神の使命を遂行するために必要な自律性を与えられることになる。この自律性こそ、教会当局が社会において、主張し、要求し続けてきたものである注 35。また、キリスト信者も他の人々同様、民法上の権利をもち、自分の良心に従って生活することを妨げられてはならない。したがって、教会の自由とすべての個人および団体に権利として認められ、かつ法的に定められるべき信教の自由とは互いに一致するものである。

14(カトリック信者に対する勧告) カトリック教会は「行って万民に教えよ」(マタイ 28・19)という神の命に従って、「神のことばが広まり、明らかになるよう」(2 テサロニケ 3・1)たゆまず働かなければならない。

 そのため、教会は、何よりもまず、信者たちに、「すべての人のため、嘆願と祈願と感謝をするように望む。……実際、それはよいことであり、すべての人が救われ、真理を知るようになることを望むわれらの神なる救い主の前によろこばれることである」(1 テモテ 2・1〜4)。

 しかし、キリスト信者は、自分の良心を形成するにあたって、教会の確実で聖なる教えに忠実に従わなければならない注 36。実際、キリストの意志によって真理の教師であるカトリック教会は、真理であるキリストを告げ、正しく教え、同時に、人間性に基づく道徳の原理をみずからの権威をもって宣言し、確証することがその任務である。さらに、キリスト信者は、教会外部者に対して賢明にふるまい、「聖霊において、偽りない愛と真理のことばをもって」(2 コリント 6・6〜7)生命の光を、全き信頼注 37と使徒的勇気をもって、おのが血を流すまでに、広げるよう努力しなければならないのである。

 実際、弟子は、師キリストから受けた真理をいっそうよく知り、福音の精神に反する手段を排して、忠実にこれを伝え、勇敢に擁護すべき重大な義務を持っている。しかし、同時にキリストの愛は、愛と賢明と忍耐をもって信仰について誤謬あるいは無知の状態にある人たちにも接するよう要求する注 38。したがって、命を与えることばであるキリストを宣べ伝える義務と、人間の諸権利と、自発的に信仰を受け、それを公言するように召された人は、キリストを通して神から与えられた恩恵の程度とを考慮しなければならない。

15(結語) 現代人が、私的かつ公的に宗教を自由に信奉できることを望んでいること、信教の自由が多くの国の憲法の中ですでに市民の権利として宣言され、また国際的文書によっておごそかに認められていることは確かである注 39

 しかし、宗教的礼拝の自由が憲法によって認められているが、市民を宗教の信奉から遠ざけ、宗教団体の生活をきわめて困難で不安にしている政府もないではない。

 公会議は、現代のこのような喜ばしいしるしを快く迎える一方、嘆かわしい事実を憂いながら告発し、すべての人が、特に人類の現状において、信教の自由がいかに必要であるかを慎重に考慮するように切に希望する。

 実際、すべての民族が、日とともにますます一体化し、文化と宗教とを異にする人々がいっそう強いきずなで互いに結ばれ、さらに、おのおのの責任感が盛んになりつつあることは明らかな事実である。したがって、人類の間に平和的な関係と和合が確立され、強化されるためには、地上いたる所において信教の自由が効果的かつ法的な保護を受け、社会において宗教生活を自由に営む人間の最高の義務と権利とが守られる必要がある。

 万民の父である神の計らいにより、社会において人類が信教の自由の制度を忠実に守り、キリストの恩恵と聖霊の力とによって、崇高にして久遠の「神の子らの栄光の自由」(ローマ 8・21)へ導かれんことを。 この教令の中で布告されたこれらすべてのことと、その個々のことは、諸教父の賛同したことである。私も、キリストから私に授けられた使徒的権能をもって、尊敬に値する諸教父とともに、これらのことを聖霊において承認し、決定し、制定し、このように教会会議によって制定されたことが神の栄光のために公布されるように命ずる。

ローマ聖ペトロのかたわらにて
1965年12月7日
カトリック教会の司教 パウルス自署
(諸教父の署名が続く)

1.

Cf. IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Pacem in terris, 11 aprilis 1963: AAS 55 (1963), p. 279; ibid., p. 265; PIUS XII, Nuntius radiophonicus, 24 dec. 1944: AAS 37 (1945), p. 14.

2.

Cf. IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Pacem in terris, 11 aprilis 1963: AAS 55 (1963), pp. 260-261; PIUS XII, Nuntius radiophonicus, 24 dec. 1942: AAS 35 (1943), P. 19; PIUS XI, Litt. Encycl. Mit brennender Sorge, 14 martii 1937: AAS 29 (1937), p. 160; LEO XIII, Litt. Encycl. Libertas praestantissimum, 20 iunii 1888: Acta Leonis XIII, 8 (1888), pp. 237-238.

3.

Cf. S. THOMAS, Summa theologica, I-II, q. 91, a. 1; q. 93, a. 1-2.

4.

Cf. IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Pacem in terris, 11 aprilis 1963: AAS 55 (1963), p. 270; PAULUS VI, Nuntius radiophonicus, 22 dec. 1964: AAS 57 (1965), pp. 181-182; S. THOMAS, Summa theologica, I-II, q. 91, a. 4 c.

5.

Cf. IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Mater et Magistra, 15 maii 1961: AAS 53 (1961), p. 417; IDEM, Litt. Encycl. Pacem in terris, 11 aprilis 1963: AAS 55 (1963), p. 273.

6.

Cf. IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Pacem in terris, 11 aprilis 1963: AAS 55 (1963), pp. 273-274; PIUS XII, Nuntius radiophonicus, 1 iunii 1942: AAS 33 (1941), p. 200.

7.

Cf. LEO XIII, Litt. Encycl. Immortale Dei, 1 nov. 1885: ASS 18 (1885), p. 161.

8.

Cf. LACTANTIUS, Divinarum Institutionum, Lib. V, 19: CSEL 19, pp. 463-464, 465; PL 6, 614 et 616 (cap. 20); S. AMBROSIUS, Epistola ad Valentinianum Imp., Ep. 21: PL 16, 1005; S. AUGUSTINUS, Contra litteras Petiliani, Lib. II, cap. 83: CSEL 52, p. 112; PL 43, 315; cf C. 23, q. 5, c. 33 (ed. Friedberg, col. 939); IDEM, Ep. 23: PL 33, 98; IDEM, Ep. 34: PL 33, 132; IDEM, Ep. 35: PL 33, 135; S. GREGORIUS MAGNUS, Epistola ad Virgilium et Theodorum Episcopos Massiliae Galliarum, Registrum Epistolarum, I, 45: MGH Ep. 1, P. 72; PL 77, 510-511 (lib. I, ep. 47); IDEM, Epistola ad Iohannem Episcopum Constantinopolitanum, Registrum Epistolarum, III, 52: MGH Ep. I, p. 210; PL 77, 649 (lib. III, ep. 53); cf. D. 45, c. 1 (ed. Friedberg, col. 160); CONC. TOLET. IV, c. 57: MANSI 10, 633; cf. D. 45, c. 5 (ed. Friedberg, col. 161-162); CLEMENS III: X., V, 6, 9: ed. Friedberg, col. 774; INNOCENTIUS III, Epistola ad Arelatensem Archiepiscopum, X., III, 42, 3: ed. Friedberg, col. 646.

9.

Cf. CIC, can. 1351; PIUS XII, Allocutio ad Praelatos Auditores caeterosque officiales et administros Tribunalis S. Romanae Rotae, 6 oct. 1946: AAS 38 (1946), p. 394; IDEM, Litt. Encycl. Mystici Corporis, 29 iunii 1943: AAS (1943), p. 243.

10.

Cf. Eph. 1, 5.

11.

Cf. Io. 6, 44.

12.

Cf. Io. 13, 13.

13.

Cf. Mt. 11, 29.

14.

Cf. Mt. 11, 28-30; Io. 6, 67-68.

15.

Cf. Mt. 9, 28-29; Mc. 9, 23-24; 6, 5-6; PAULUS VI, Litt. Encycl. Ecclesiam suam, 6 aug. 1964: AAS 56 (1964), pp. 642-643.

16.

Cf. Mt. 11, 20-24; Rom. 12, 19-20; 2 Thess. 1, 8.

17.

Cf. Mt. 13, 30. 40-42.

18.

Cf. Mt. 4, 8-10; Io. 6, 15.

19.

Cf. Is. 42, 1-4.

20.

Cf. Io. 18, 37.

21.

Cf. Mt. 26, 51-53; Io. 18, 36.

22.

Cf. Io. 12, 32.

23.

Cf. I Cor. 2, 3-5; I Thess. 2, 3-5.

24.

Cf. Rom. 14, 1-23; I Cor. 8, 9-13; 10, 23-33.

25.

Cf. Eph. 6, 19-20.

26.

Cf. Rom. 1, 16.

27.

Cf. 2 Cor. 10, 4; I Thess. 5, 8-9.

28.

Cf. Eph. 6, 11-17.

29.

Cf. 2 Cor. 10, 3-5.

30.

Cf. I Pt. 2, 13-17.

31.

Cf. Act. 4, 19-20.

32.

Cf. LEO XIII, Litterae Officio sanctissimo, 22 dec. 1887: ASS 20 (1887), p. 269; IDEM, Litterae Ex litteris, 7 aprilis 1887: ASS 19 (1886), p. 465.

33.

Cf. Mc. 16, 15; Mt. 28, 18-20: PIUS XII, Litt. Encycl. Summi Pontificatus, 20 oct. 1939: AAS 31 (1939), pp. 445-446.

34.

Cf. PIUS XI, Litterae Firmissimam constantiam, 28 martii 1937: AAS 29 (1937), p. 196.

35.

Cf. PIUS XII, Allocutio Ci riesce, 6 dec. 1953: AAS 45 (1953), p. 802.

36.

Cf. PIUS XII, Nuntius radiophonicus, 23 martii 1952: AAS 44 (1952), pp. 270-278.

37.

Cf. Act. 4, 29.

38.

Cf. IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Pacem in terris, 11 aprilis 1963: AAS 55 (1963), pp. 299-300.

39.

Cf. IOANNES XXIII, Litt. Encycl. Pacem in terris, 11 aprilis 1963: AAS 55 (1963), pp. 295-296.

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