2014.07.16

悪魔の腐った舌 『信教の自由に関する宣言』 Part 4

激し過ぎる表題? そんな事はない筈です。一緒に見て下さい。

 前回の記事を読んでこう思った人があるかも知れない。

確かにこの宣言は物事を "針小棒大加工" しているかも知れない。しかしそれでも、結果としてこの宣言が「人は強制されてはならない」という事を強調しているだけなら、大して問題ではないだろう、さほど有害ではないだろう。

 否、そういうことにはならない。
 何故なら、この宣言を読む人はその「読む」過程で多くの悪しき言葉を「読まされる」からである。確かに「人は強制されてはならない」というだけなら話は簡単だが、宣言は読者に、それが如何に「神の意向」に沿ったものであるかを証明しようとしながら、多くの悪しき言葉、不全な言葉を「読ませる」のである。

 ともかく、以下、宣言を読みながら私が感じた事を書いてみたい。ただ今回は、必ずしも文章の順に沿った書き方でなく書いてみたい。しかし取り敢えず冒頭から。

信教の自由に関する宣言

ディグニタティス・フマネ

1965年

宗教問題における社会および
市民の自由に対する個人およ
び団体の権利について

全文  英訳  ラテン語

悪しき標語力

「信教の自由(Religious Freedom)」

 言葉というものは不思議なものであって、人間の心に不思議な作用を及ぼすものであって、タイトルに「信教の自由」とあるだけでも危険である。

 「不思議な作用」とはつまり、刷り込み力、暗示力のようなものである。(誰もこれを馬鹿にはできない)

 この宣言が言いたいことが畢竟「人は強制されてはならない」ということであるならば、タイトルは『信教の自由に関する宣言』ではなく『宗教に於いて有り得べからざる強制に関する宣言』とでもすべきであった。

 しかし、彼らはそうしなかった。それは、彼らが或る種の「広告マン」だからである。広告マンはどのような言葉が「標語的な力」を持っているかを知っている。

 必ずしもしっかりした人ばかりから成っているのではない教会の中で、これは十分にそのような力、悪しき力、混乱させ、錯覚させる力を持つだろう。

1(序文) 現代において、人々は人格の尊厳を日増しに意識するようになっている(注 1)。また、強制されることなく、義務感に導かれて、自分の判断と責任ある自由とによって行動することを要求する者の数がふえてきた。同じように、個人や団体の正当な自由の領域が大きく制限されないように、公権の法的限定を要請している。人間社会におけるこのような自由の要求は、主として、人間精神の価値、特に、社会における信教の自由な実践に関する事がらに向けられている。このバチカン教会会議は、人間のこのような熱望を注意深く考慮し、それが、どれだけ真理と正義とに合致するかを明らかにするため、教会の聖なる伝承と教説を探求し、そこから、古いものと常に一致した新しいものを引き出す考えである。

全文  英訳  ラテン語

「強制されることなく、義務感に導かれて、自分の判断と責任ある自由とによって行動することを要求する者の数がふえてきた」

1960年代の若者たち

1960年代の若者たち

 確かに、第二バチカン公会議があった1960年代当時、人々の間で、特に若者達の間で、保守的な価値観が「既成の価値観」などと呼ばれ、大きく後退し、代わって「自由」が、或いは「自主独立」が、或いは「自主的判断」が、大きく叫ばれ始めたのではあったろう。

 しかし、上の文は、そのような当時の人々の "変化" をただ客観的・中立的に描写・報告したというだけのものではない。その文は、基本的に、宣言筆者による「肯定」の対象である。すなわち彼は言うのである──「強制されることなく、義務感に導かれて、自分の判断と責任ある自由とによって行動することを要求する者の数がふえてきた」という人類の変化が「どれだけ真理と正義とに合致するものであるか」を自分は明らかにする所存である、と。

 もう一度。
「強制されることなく、義務感に導かれて、自分の判断と責任ある自由とによって行動することを要求する者の数がふえてきた」

 多くの "純真" な人達が、この文に疑問を感じないだろう、この文を肯定するだろう。何故なら、ここにある「義務感」「責任」と云った言葉自体が、そのようなタイプの人を頷かせる力を持っているから。

 標語化された言葉に限らず、本当は言葉という言葉が、"言語的な動物" である人間にとっては常に一定の「暗示力」を持っていると言える。(「催眠効果」とさえ言っていい)
 どういう事かと云えば、例えば、簡単に言えば、人は実際のバナナを自分の目で大してよく見ていなくても、言葉で「バナナ」と言われれば、自分はそれについてよく知っていると思うのである。しかし、それは一つの「思い込み」である。
 事がバナナのことであるなら、実生活上、そのような「思い込み」があっても、大して実害はない。しかし、もう少し観念的・抽象的な事柄を扱うとなれば(例えば「人間とは」)、そうは行かない。その時、「現実」というものをちゃんと見定める努力をしなければ、言語操作に長けた奴等に騙されてしまうのである。
 (参考: 非現実的

 もう少し用心深い人、「自由」という概念の危うさを知っているような人は、少しは立ち止まるだろう。しかしそれでも、単なる「自由」ではなく「責任ある自由」と書かれては、なんだか一応肯定できるような気がして、やっぱり先に進んでしまうだろう。

 しかし、もう少し考えてみよう、
 「責任ある自由(responsible freedom)」って何だ?

 その言葉は「現実的」か?
(もし「現実的でない」とするなら、それは言葉として「堅実でない」のであり、従って「フザケタ言葉」と云うべき可能性が出て来るのである)

 と云うのは、「責任ある」と言ってみたところで、その「責任」なるものの感じ方、受け取り方は、実際にはまったく「人それぞれ」だからだ。
 「義務感に導かれて」も同様。

1960年代の若者たち
1960年代の若者たち

 上は60年代の若者達の姿である。そこにはヒッピーが居たばかりでなく、政治に真面目な関心を寄せる若者達も居ただろう。しかし、彼らの間に "新しいライフスタイル" が登場したのは事実で、いわゆる自由恋愛、未婚のカップルの同棲なども始まっただろう。
 しかし彼らは、また彼らばかりでなくあらゆる人は、何であれ、何がどうあれ、言い得るのである──「私は "自分の判断と責任ある自由" によってこれをしているのだ、あれをしているのだ」と。(連合赤軍の若者達でさえそう言ったに違いない)

 もう一度。
「強制されることなく、義務感に導かれて、自分の判断と責任ある自由とによって行動することを要求する者の数がふえてきた」

 だから、この言葉は不実である、不実な言語表現である。

 人類に関する何らかの良き展望を開くためには、まず当然、人類の〈実際のところ〉をよく見なければならないが、この宣言はそうしていない。「(自分なりの)義務感に導かれて、自分の判断と責任ある自由とによって行動すること」の危うさを見ていない。*

* 私の信ずるところ、それは彼らに於いては「過失」や「不足」と云ったものではなく、確信的・意図的に「見る気がない」「見るつもりがない」ということである。

 だから、その文は自分の言ったことを言った端から裏切る言葉である。つまり、その文は「責任」という語を含むが、実のところそれ自身が「無責任」な言葉である。再び、「よく言うよ」の世界である。

 世の神父様方、再び偉そうに言うことをお許し頂きたい、
 あなた方は「言葉の現実性」或いは「堅実性」というものをお考えなのか?

参照

 その文はまたしても一つの「美文」である。
 空想上の綺麗な服である。悪しき化粧である。

 或いは「空砲」である。
 音だけは如何にも真面目そうに鳴り響く。
 しかし中身は空っぽ。つまり「言葉だけ」である。

おまけ

2003年3月19日、テレビで対イラク戦の開始を告げるG. W. ブッシュ大統領

 彼が文字通りこのように言ったかどうかは問題ではない。しかし、彼は確かにその「ように」言いながら正当性が疑わしい(という大人しい言い方をしておく)戦争を始めたのである。

 しかし、彼ブッシュのことを言いたいのではない。
 「言葉」というものの危うさのことを言いたいのである。

 マルクスは「私は読む人によって如何様にも取れる言葉を教える」と言ったが参照、神父様方、あなた方が宣言のその言葉を頼まれてもいないのに善意で受け取るなら、これを人類に対する「肯定的な見方」と見、或いは人類同胞に対する「おおらかな態度」と見るなら、教会の中で笑うものがあるだろう。( the fifth column、第五列 が)

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