2014.07.16

悪魔の腐った舌 『信教の自由に関する宣言』 Part 7

激し過ぎる表題? そんな事はない筈です。一緒に見て下さい。

非現実的

 前回と同じ箇所を見る。
 この箇所を別の方向から見れば、やはり「非現実的」ということになる。(つまり「非現実的」なのは序文から明らかだったが)
 世の神父様方は、言葉としての「正しい、正しくない」しか見ないようだ。しかし、「現実的かそうでないか」は殊の外大事だ。教会は生きた人間を扱わなければ(牧さなければ)ならないのだから。「人間のことはよく分からない」では話にならない。

 (2、第二段落)

 すべての人間は、人格、すなわち、理性と自由意志を備え、したがって個人的責任を帯びるものであり、自分の尊厳のゆえに、真理、特に、宗教的真理を探求する本性にかられ、また道徳的に義務を負わされている。そして、真理を認めた場合、これにとどまり、真理の要求にしたがって自分の全生活を規正する必要がある。しかし、人間は、心理的に自由であるとともに、外的強制を免れなければ、自分の本性にかなった方法で、この義務を果たすことはできない。したがって、信教の自由は、人間の主観的状態ではなく、その本性に基づくものである。したがって、外的強制からの免除の権利は、真理を求め、これを受け入れる義務を果たさない人にも存続し、またこの権利の行使は、正当な治安を乱さない限り、妨げられてはならない。

〔英訳版〕It is in accordance with their dignity as persons-that is, beings endowed with reason and free will and therefore privileged to bear personal responsibility-that all men should be at once impelled by nature and also bound by a moral obligation to seek the truth, especially religious truth. They are also bound to adhere to the truth, once it is known, and to order their whole lives in accord with the demands of truth. However, men cannot discharge these obligations in a manner in keeping with their own nature unless they enjoy immunity from external coercion as well as psychological freedom. Therefore the right to religious freedom has its foundation not in the subjective disposition of the person, but in his very nature. In consequence, the right to this immunity continues to exist even in those who do not live up to their obligation of seeking the truth and adhering to it and the exercise of this right is not to be impeded, provided that just public order be observed.

〔英訳版からの管理人試訳〕すべての人間が本性にかられると同時に真理(特に宗教的真理)を探求する道徳的義務に縛られるべきは、理性と自由意志を賦与され、またそれ故個人的責任を負う特権を与えられた存在としての尊厳、すなわち人格の尊厳と一致してのことである。そして人間は、真理を認めた場合、真理に忠実であるよう縛られ、また彼らの全生涯を真理の要求に一致させるよう縛られる。しかし人間は、外的強制からの免除と心理的自由を手にするのでない限りは、自分の本性にかなった形でそれらの義務を果たすことはできない。したがって信教の自由は、人間の主観的状態にでなく、その本性に基礎を持つものである。したがって、外的強制からの免除の権利は、真理を求め、これを受け入れる義務を果たさない人にも存続し、またこの権利の行使は、正当な治安を乱さない限り、妨げられてはならない。

全文  英訳  ラテン語

「すべての人間は(…)宗教的真理を探求する本性にかられ」
 ノストラ・エターテが「人びと」の持つ哲学的・宗教的関心について大袈裟なことを言ったように参照、これもおよそ人類の実態から離れた言い方であり、従って「安直」で「無責任」な言い方である。
 すなわち、決して「すべての人間」が宗教的真理を探求する本性に「かられてimpelled」いるわけではない。むしろ、そのような表現に値するのは比較的(或いは非常に)少数の者である。人間は、放っておけば、必ずしも人間社会の法律に触れる犯罪を犯すとは限らないとしても、何処に行くか分からないものである。まして「放っておいても宗教的になる(いつか自らその方の探索を始める)」(宣言はそのような言い方である)ようなものではない。

「すべての人間は(…)また道徳的に義務を負わされている」
 そんなことを言っても始まらないのである。「人間は神によって、また自分自身の理性によって、道徳的な義務を負わされている」と言ったところで、そしてこれに神父様方が「その通りだ」と答えたところで、それはほとんど人間の現実を動かさない。そういう意味では、ほとんど何を言っているのでもない。余りに空疎な言葉である。

 教会の使命とは、ただ「間違ってはいない」というだけの言葉を述べることではない。「人間は、神に創られたので、当然、内的に、また本性上、道徳的な義務を負うものであるが、なかなかそれを自覚できるものではないので、教会と信者は斯く斯くの努力をしなければならない」と言葉を運ぶのが教会人である。

「そして、真理を認めた場合…」
 それは、「人間が真理を認めた場合」について語るのは自由である。しかし本当は、そんなに簡単に語ってくれるな、である。何故なら、人間なんて、そんなに簡単に「真理」など認めないからである。(彼は「すべての人間」について語っているのである)

 とにかく、言葉があまりにペラペラである。このペラペラ感は、彼が人間の「現実」というものを見る確かな目を持っていないことを示している。否、持っていないと云うより、彼は持つ気もないだろう。彼は本当は「人間」にも「真理」にも "気のない" 人であるだろう。つまり本当の関心のない人であるだろう。彼が本当に関心を持つのは、彼また彼らの〈目的〉だけであるだろう。だからこのように、言葉を表面的・機械的に「組み立て」「重ねた」だけのような文章になるのである。私はあの「オランダ新カテキズム」を思い出す。その筆者同様、この宣言筆者も〈魂の虚ろな人〉であるだろう。

「そして、(すべての人間は)真理を認めた場合、これにとどまり、真理の要求にしたがって自分の全生活を規正する必要がある」
 「理屈だね」というだけの話である。一見立派な生活教示だが、本当は中学生でも書けるところの(中学生に失礼か)、実に安い作文である。これに感心する神父様方は居るのか?

 それに第一、上のこれらの言葉の中でしきりに「真理、真理」と言っているが、その「真理」なるものが何であるのかさっぱり判然としない。

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