2014.07.16

悪魔の腐った舌 『信教の自由に関する宣言』 Part 9

激し過ぎる表題? そんな事はない筈です。一緒に見て下さい。

「自己完成」の意味、「宗教生活を助長する」因子
等についての筆者の見方はテキトーである

6(信教の自由を保護する義務) 社会の共通善は人間が、いっそう完全に、いっそう容易に自己完成に到達できるような社会生活の諸条件の総和である。そして、これは、特に、人格の権利と義務の保護にある(注 5)。そのため市民も、社会的団体も、公権も、教会その他の宗教団体も、共通善に対するおのおのの義務によって、おのおのに固有の方法で、信教の自由の権利を守るよう注意する必要がある。

全文  英訳  ラテン語

 「自己完成に到達できるような」
 しかし、英語訳を見れば、ここには「possibility」という単語が入っている。「そこに於いて人が自己完成に至る可能性を手にする社会生活」と。(日本語訳も「誤訳」とまでは言えないだろうが)

 まさしく、それは「可能性」である。社会が共通善という点でかなり整えられても、それで各人が「自己完成」に至るかどうかは全く未知数である。それどころか──神父様方に「人間の現実」を知ってもらいたい──現実はそれとは大いに「反対」でさえあり得る。人々は享受された「自由」の中で、ただ「お気楽」な生き方の方へ、或いはそれ以上に「享楽的」な生き方の方へ行ってしまい、そこに落ち着いてしまう可能性もごく普通にあるのである。

「自己完成(own perfection)」
 そしてそもそも、この "カトリック聖職者" は、この「自己完成」という事について「人の自己完成は天主への信仰を以てして初めて達成される」と言わないようである。
 カトリック信者、そして特に神父様方、ここをよく考えてもらいたい。これは最大の〈裏切り〉ではないか?

 「人格の権利と義務の保護にある」
 「権利の保護」とは普通に言われるが、「義務の保護」というのはあまり聞いたことがない。英語訳を見れば、「it chiefly consists in the protection of the rights, and in the performance of the duties」となっている。「権利の保護、及び義務の履行にある」である。ここは日本語訳が不適切であるようだ。

 (6、第ニ段落)

 人間の不可侵の権利を保護し、増進することは、本質的にすべての公権の義務である(注 6)。したがって、公権は、正しい法律と他の適切な手段によって、効果的にすべての市民の信教の自由を保護し、宗教生活を助長するために有利な条件を作る必要がある(注 7)。それは市民が真に信教の権利を行使し、その義務を果たし、また社会自体も、神とその意志とに対する人間の忠実さによってもたらされる正義と平和の恩恵を享受することができるようにするためである。

全文  英訳  ラテン語

 神父様方は、このような言い回し、ヴィジョンを、「よい。非常によい」と思わないようにしなければならない。何故なら、「信教の自由」という一つの「環境」或いは「条件」だけでは、天主の信者が増えることは見込まれないからである。(今の日本を見よ)

 この宣言筆者は「人間の権利」のために整えられたそのような「環境」又は「条件」を称して「宗教生活を助長するために有利な条件」と言っている。しかし、これは「ものは言いよう」の部類でしかない。それは、物凄く封建的な宗教的社会(現在の世界でもイスラム圏にはチラホラ残っているような)と「比較」すれば、自由な社会は「有利」と言える。しかし、ここは間違ってはならない。既に言ったが、「人間の現実」からすれば、この筆者が強調するところの「完全に自由な社会」が「宗教生活を助長する」などということは全くあり得ない話である。(今の日本を見よ)

 「信教の自由の権利の保護」だけで人々が「宗教的」になるわけがない。「信教の自由の権利の保護」の恩恵だけで人々が「神とその意志とに対する人間の忠実」(by 宣言筆者)を発揮するわけがない。

 彼が言っているのは「まやかし」である、「妄語」である。

 私達は以前見た言葉も思い出しておかなければならない。

すべての人間は(…)真理、特に、宗教的真理を探求する本性にかられimpelled

信教の自由に関する宣言  2

人びとは種々の宗教から、昔も今も同じように人の心を深くゆさぶる人間存在の秘められた謎に対する解答を期待している。

ノストラ・エターテ  序文

 しかし、現実的には、人々は宗教的真理を探求する本性に「かられて」などいないし、宗教的疑問に「心を深くゆさぶられて」などいない。それが現実的に観察されるところである。
 だから、共通善に於ける「条件整備」「環境整備」だけでは、つまり「信教の自由」だけでは、人は何ら特に「宗教的な方向」へ押しやられないのである。
 そしてこの事は「時代」に関係すると云うより「人間」に関係する事である。どの時代の人間も、ただ「権利が保障されてある」ということだけでは、特に「宗教的」な方向に進まないし、まして「真の宗教」に進むものではない。それはこれらの宣言が書かれた1960年代に於いても同じだったろう。
 だから、これらの宣言が(現代世界憲章もだが)私達に提案している人類に関する楽観的な展望は、実は「楽観的」と云うに留まらず「妄想的」なものである。
 しかし、それらの宣言の書き手自身が妄想的な人物なのかと云えば、そうではない。彼らは全てを分かった上でやっているのである、分かった上で以上これらを書いているのである。
 神父様方、これが何故だか分かるか? 以上の事の理由が。

 この宣言が、今まで見て来た他の第二バチカン公会議文書(十分に書けたとは思わないけれども、参照: 現代世界憲章教会憲章典礼憲章ノストラ・エターテ)と同じく、どれほど信頼に値せぬものであるか、もういい加減わかったと思う。
 だから、宣言の残りの部分に関しては、特に目に付いたところだけを拾うこととする。(トピック別と云うか)

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