2014.07.16

悪魔の腐った舌 『信教の自由に関する宣言』 Part 11

激し過ぎる表題? そんな事はない筈です。一緒に見て下さい。

「自由」と「強制」、その二つしか知らんのか(1)

プラカード「自由」「強制」

「自由」でなければ即「被-強制」?
その二つしか知らんのか

家庭の宗教教育に於ける 「親の子に対する指導性」
(それは一定程度必ず "外的拘束力" であるが)
の問題にはこれっぽっちも触れないゴマカシ精神

5(家庭における信教の自由) すべての家庭は、固有の、本源的権利をもつ社会として、親の指導の下に、その宗教生活を自由に営む権利を持っている。それで、親は、自分の宗教的信念に基づいて、子女が受ける宗教教育の種類を決定する権利を持っている。したがって、学校あるいは他の教育機関を真の自由をもって選択する親の権利が、公権によって認められなければならない。この選択の自由が、直接にも間接にも親に不当な負担がかけられる理由となってはならない。なお、子女が親の宗教的信念に一致しない授業への出席が強制されたり、宗教教育を完全に除去したただ一つの教育制度を押しつけられたりすれば、親の権利は侵害される。

全文  英訳  ラテン語

 「宗教の実践は、その性質上、第一に、人間が自分を神に関係づける任意で自由な内的行為にある」と言った彼にとって、「家庭に於ける宗教教育」の問題は本当な微妙なものを含む筈なのである。

 子供と云えども「人格の尊厳」は持つのだから*、文字通りの「強制」、首に繩付けて引っ張って行くような強制は許されない、それは勿論である。

* 私は必ずしも「人格の尊厳」という概念が嫌いではない。一定の範囲内の言葉としては。

 しかしそうかと言って、子供の「任意で自由な内的行為」に全く任せていたのでは──例えば「教会に行くのはやだ。テレビゲームをしていたい」というような軽い理由にまで折れていたのでは──「家庭に於ける宗教教育」はままならない。「教育」は成り立たない

 子供の成長程度(年齢)ということも含め、宣言筆者はこの問題に触れるべきなのである。

 何故なら、「家庭教育」ということが成り立つためには、親には一定程度(無限にではなく)「権威」が付されなければならないが、世の中には色々な親が居るので、その「権威」を乱暴に使う親も居ないとは限らないからである。(否、残念ながら、実際居るだろう。「乱暴さ」の程度は色々だとしても)

 そうならば、「人格の尊厳」を限りなく尊び、宗教に於いては人間の「任意で自由な内的行為」が "第一" とする宣言筆者は、「親の権威」の下の「子の権利」について、少しも心配にならないのか。彼の主張からすれば、彼がそれに触れるべきは余りに当然である。

 然るに、彼はその問題に一言も触れない。彼が触れるのは、対社会的な親の権利、つまり「公権に圧迫されかねない、親の、子を教育する権利」の事だけなのである。
 そして驚くべき事に、彼は「家庭に於ける宗教教育」に関しては、上の一段落だけで終えるのである。

 何故そうなのか?
 何故なら、その問題は彼にとって扱いにくい問題だからである。

 彼は、あらゆる議論を、
 「自由」 か 「強制」(被-強制) という、
 「自由」 然らずんば即 「強制」(被-強制) という、
 その二つしかないのだ という、
 ひどく単純な二元論で塗りこめたい。

 彼は、その二つの間のどんなグラデーションも考えたくない、
 否、「考えさせたくない」のである。

 「グラデーション」と聞いてピンと来ない人は居るだろうか。
 一番分かり易いのは、「なだめたり、すかしたり」である。

 いや、冗談ではなく、親の子に対する教育に於いては、「全くの自由放任」から「純然たる力による強制」までのあらゆるグラデーションがあるだろう。(親は賢明でなければならない)

 そして、実は──否、「実は」なんて言わなくても──「教会」もまた、そのような事と無縁ではない。
 「家庭」が「教育」の場なら、「教会」は「教導」の場である。
 全く同じではないが、「重なる」部分は多い。

 「家庭」に於いては、「自由」と「強制」との間に、
 「なだめすかし」も「叱り」も「諭し」もあるだろうし、
 「教会」に於いては、「自由」と「強制」との間に、
 やはり「諭し」が、「諌め」が、「勧告」があるべきである。
 要するに「指導性」という一語に約[つづ]まる。
 この点に於いて「家庭」と「教会」は、大胆に言えば「同じ」でさえある。

 しかし、「家庭に於ける宗教教育」に対しこの視点を持ち、それについて何事か書けば、彼の立場は悪くなるのである。「教育」や「教導」と云う場に於いては人間の「自由意志」という事だけで片付くものではない、ということが浮き彫りになるからである。だから、彼は口をつぐむ。そして、そそくさと一段落だけで終わるのである。

 『信教の自由に関する宣言』は、教会の「指導性」というものを弱めたい勢力が拵えた文書である。

 「弱める」とは具体的にどういう事かと云えば、この文書の方向性を呑んでしまった司祭は、例えば「主日の義務」にしても、その遵守を信者に呼びかけることは──単に "呼びかける" ことであるのに──何となく「押し付けがましい」ことのような気がし、信者の「自由性」を縛ることのような気がし、信者の「良心の尊厳」にケチを付けることのような気がして、結局、口を開くことがなくなるだろうという事である。所謂「躊躇」が出るのである。

 そうこうしているうち、別の「神学」がその司祭をなだめるかも知れない。「神は愛である。主日に来なくなった信者をも引き続き御目にかけ給うだろう」。或いはもっと俗な言い訳が彼をなだめるかも知れない。「彼らだって大人だ。自分で判断できるだろう」。

 それらの言葉も、或る意味、真実である。しかし、そうかと云って、それらの真実を「すべて」にしてしまい、それらに完全に道を譲ってしまえば、司祭の「指導性」は消えてなくなるのである。
 「私の羊を牧せよ」(聖ヨハネ 21:16〜17)であるに拘らず。

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