2014.08.31

「未来の統一世界通貨」の試作品に「多様性における一致」

未来の統一世界通貨 = United Future World Currency

 古い話、2009年の話。こんなことがあったんだ。知らなかった。
 提案された国際通貨の試作品に「多様性における一致」の文字。

United Future World Currency

Unity in Diversity = 多様性における一致

 多くのカトリック教徒は、この「多様性における一致」という観念を「教会」の口から聞くから、これを「教会的」なものと思っている。しかし、もしこのような仕方、コインに刻印するという仕方で人々の心にアピールされ得るものなら、その観念はもともと大して「教会的」なものではないのである。以上。

 本当に「以上」である。本来これだけでいい筈である。しかし、これだけではあまりに事実関係が分からないので、それを伝える記事を二つ紹介する。どちらも抜粋引用。画像は管理人による挿入。

硬貨が象徴する未来の「世界統合通貨」、露大統領がG8でお披露目

記者:Lyubov Pronina - July 10, 2009 12:53 EDT

7月10日:ロシアのメドベージェフ大統領は10日、ドルに代わる国際通貨を説明するため、ポケットからサンプル硬貨を取り出し、「未来の世界統合通貨」を披露した。

イタリアで開催された主要国首脳会議(ラクイラ・サミット)閉幕後、メドベージェフ大統領は記者団に対し、「これですよ。目で見て、触れてみてください」と呼び掛けた。

同大統領は「多様性の統合」と記された同硬貨はベルギーで鋳造されたと説明。今回、主要8カ国(G8)の首脳陣にお披露目したことを明らかにした。

ブルームバーグ  Bloomberg

米金融危機再燃の可能性

2009年7月12日  田中 宇

 またG8では、ロシアのメドベージェフ大統領が「未来の世界通貨」の貨幣を試作して持参して「造幣所も、超国家通貨を作る気になっている」と冗談を言いつつ記者団に試作貨幣を触らせ、お土産として参加各首脳に配った。(「1」と書かれた貨幣には単位がついていないが「多様性の中の統合」unity in diversity と英語でモットーが刻印され、世界の5大陸を意味すると思われる5枚の木の葉が描かれている)

United Future World Currency

田中宇の国際ニュース解説

 (幾つかのデザインがあるようだ。画像検索 )

 もう少し書くとする。

 しかし私は、田中宇さんのように政治経済的な観点からこれを見ているのではない。第二バチカン公会議以降、カトリック教会の真ん中の位置で「神学」の顔して大手を振るうようになった観念としてのこれを見ているのである。

 そうである、それはあーだこーだと「神学的」に論じられている。或いは、カトリック聖職者の口から出れば、それは人の目に自然、少なくとも「神学ふう」に映る。

良心の声は時として宗教や信条の違い、あるいは道徳的生活の乱れや習慣によって曲げられたり弱められたりもするが、根本的なところではおおよそ一致して善を命じ、悪を禁じるものであって、従って、世界が一つの平和な共同体となるために、万民が良心に立ち返って人類家族としての意識を確立する道は開かれていると思う。良心の声は世界を「多様性における一致」に導き、そのルーツを尋ねれば人類の共同の父なる神にたどり着くだろう。

糸永真一司教のカトリック時評「人類は一つの家族

 しかし実は、それは「神学」と言うより「心情」である。「世界は一家、人類は皆兄弟」と云うのと、本当は大して変わる所がない。

 そして、「信教の自由」の概念と同じように、もし人がこの「多様性における一致」という事を「啓示」と結び付けたいなら、またもやこう主張しなければならない。「それは啓示によって文字通りには断言されていないが、それに基づいている」参照

 いわゆる「関連付ける」ことは簡単である。精神的な事柄の中のあらゆるものの間に「間接的関連」は幾らでも難なく拾える。善という善は、大小高低あらゆる善が、善でありさえすれば、天主様と結び付けられることが可能である。しかし「可能」だからと云って何でも結び付けていたのでは、物事がどこかおかしくなる。「適切な関連付け」と「安直な関連付け」の二つがある。

 確かに主は「平和をもたらす人は幸いである、その人は神の子と呼ばれるであろう」とおおせられた。そして、そこでは「しかし、それに先行して信仰が必要である」とは続けられなかった。しかしそれでも、主はどんなに人々に「信仰」をお求めになっただろう。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通ってでなければ、だれも父のもとに行くことはできない」とおおせになった。そしてそもそも「聖書」は「信仰の書」である。

 ところが、片や「多様性における一致」という観念は、路傍の石のように、全くの世俗の世界にも転がっていることのできる観念なのである。神の真理が「福音の酵母」の働きで世俗世界にも浸透して来たと思うか? 否、もともと世俗世界にもあった大して珍しくもない考え方が、教会の中に入り込み、大手を振っているだけの話である。

 教会の中に昔からその言葉があってもである。

教会では、古くから「多様性における一性」(Unitas in varietate)ということが言われてきた。

糸永真一司教のカトリック時評「世界の中の日本になる

 言葉が "同じ" だからと云ってその持つ意味の広がりまで "同じ" だとは限らない。その言葉が事実、昔から教会世界の一隅にあったのだとしても、今日その言葉が持っているような意味の広がりは持っていなかった筈である。

 Wikipedia はこう言っている。

The idea and related phrase is very old and dates back to ancient times in both Western and Eastern Old World cultures.

Unity in diversity(Wikipedia-en

 けっこう有り触れた考え方だったのである。それもその筈である。それをどんなに神学ふうに言おうと、難しく言おうと、それは「小異を捨てて大同に付こう」とか「枝葉の事はひとまず措いて」とかいう呼び声と謂わば "心情に於いて同根" であって、それくらいの事は古代の人も考えたからである。

 神父様方、そんなものに教会の中で大手を振らせていていいのですか? 第二バチカン公会議的な発想や文言をなぞるのではなく、「自分の頭で考える」ということを本当に取り戻してみては如何ですか?

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