2014.09.20

「中心」とか「主役」とか

神父様方、第二バチカン公会議的な発想や文言をなぞるのではなく、
「自分の頭で考える」 ということを本当に取り戻してみては如何ですか?

勝谷太治司教 2014年 年頭司牧書簡 =司祭中心の教会から信徒中心の教会へ=

 今年は2014年である。
 上の言葉はその2014年の日本の司教の言葉である。
 彼らはいまだにこんなことを言ってる。
 「中心」とか「主役」とか。

 それは2014年1月1日付けで発行された札幌教区ニュース第21号に於ける勝谷太治(かつや たいじ)司教様の年頭司牧書簡である。

 "失礼イラスト" に続いて、以前国井神父様に向けて放った "失礼言葉" を再掲する。

 何故ならば、簡単な話、会衆は何千何百と居ようと「聖変化」を起こせないが故に、会衆だけでは「ミサ聖祭」は成り立たないからである。
 それだのに、なんで「会衆」が「主役」だろうか。
 (○カも休み休みに言え)

参照

 私は「ミサ聖祭の主役は司祭である」などと言いたいのではない。(分かりますよね)
 もし「主役」という言葉を使うならば、当然、「ミサ聖祭の主役は主イエズス様」である。
 司祭は「主役」ではないが「代役」である、主イエズス様の。貴重な不可欠の代役である。司祭が居なければ「ミサ聖祭」は成立(生起)しないのだから。
 そして、「教会」にとって「ミサ聖祭」は中心的なものだから、欠くことのできないものだから(現代の司祭方はこれに賛成するかどうか分からないが!)、従って、勝谷司教様のように「教会の中心は司祭ではなく信徒である」とも言うべきではないのである。決して。

 ×「ミサ聖祭の主役は司祭ではなく信徒である」
 ×「教会の中心は司祭ではなく信徒である」

 カトリック信者として神経がどうかしている言葉である。

 そして、国井神父様や勝谷司教様は、「司祭の召命は減少傾向にあるから」というので、その現実には勝てないというので、「司祭不在の教会」のために信者の心を準備させようとしている。彼らは「良心的」なつもりでそうしているのである。
 もう一回暴言を吐いていいですか。「考えの浅い人達である」

 "国井神父様ばかりでなく勝谷司教様も「司祭不在の教会」のために信者の心を準備させようとしている" ということを跡付けておく。同じ年頭司牧書簡(pdf)の中で勝谷司教様はこう仰っている。

第2バチカン公会議以後50年、今回の表題「司祭中心の教会から信徒中心の教会へ」の表現はお題目のごとく、今まで何度も繰り返されてきました。やがて、司祭が減少しはじめ、更に大きな声で叫ばれるようになりました。それでいながら、いよいよ司祭が不足し、一人の司祭が3〜4の小教区を兼務する事態になってきてもなお、現実はまだまだ司祭中心の教会であり、信徒はその指示によって動くアシスタントの役割の域を出ていないところが多いように見受けられます。

 私は読んでいて椅子から滑り落ちそうになったのである。「やがて、司祭が減少しはじめ、更に大きな声で叫ばれるようになりました。それでいながら、いよいよ司祭が不足し」の後に、その当の「司祭の減少」についての嘆きが続かないのである。その後に続くのは〈それにも拘わらず教会はいまだに司祭中心です〉という "嘆き" なのである。「嘆きはそこですか」と私は独りごちたのだった。

注)私達は「言葉」に二つのものを見なければならない。一つは言葉そのもの、〈字面〉であり、もう一つはそこから言葉が出て来るところの〈意識〉である。そして、大事なのは常に〈字面〉ではなく〈意識〉の方である。
 確かにこれを〈字面〉だけで見る時、「いや、それはこの書簡のテーマが『司祭の減少』ではなかったからです」と言うことができる。しかし、これを〈意識〉の問題として見た時、〈意識の流れ〉として見た時、それで済むものではない。

 多くの司祭達は「司祭の減少傾向はこの先も避けがたいようだ」と思っている。いわば、それが人類文明の "既定路線" であるかのように思っている。そうして、「集会祭儀」や「聖体奉仕者」をそのための必要で正当な備えだと思っている。「集会祭儀」や「聖体奉仕者」に疑義を提出する信者に対して、「そんなこと言って、この先もますます司祭が少なくなったら、あなた、どうするんですか」と逆に問い返して来る司祭も居るようだ。

 「聖体奉仕者」は本来「臨時(extraordinary)聖体奉仕者」である。しかし、現実には一向そうなっておらず、あたかも「常任聖体奉仕者」であるかのようである。何故そうなのかは、上の如き次第だ。

 つまり、全てを(とは言い過ぎかも知れないが)「人間の必要」から考えていくやり方である。「地上の必要」から従来「神的な秩序」と思われていたものまで変えようというやり方である。しかし、教会が国家によって非常な迫害を受けている時ならいざ知らず、一応平和である現代の日本に於いて今からそんな「備え」をするのはかなり安直浅薄な「対症療法」と言われるべきである。

 現代の司祭方は上も下も分からなくなっている。

 「司祭の減少」? なるほど。しかし──

① もし松浦補佐司教様の言うように、「教会」という存在は人類のための「目的地」としてあるよりも「しるし」としてあると云うならば、どうしてそこに人が集まるだろうか。

② もし国井神父様の言うように、「司祭」という存在が「光栄ある職業*」ではなくして、「特別中の特別な職業」ではなくして、「進行補佐役」程度のものであるならば、どうしてカトリック青年は「司祭になる」ことに惹き付けられるだろうか。

* もちろんそれは「職業」以上のものだけれども。

③ もし勝谷司教様の言うように、「教会の中心は司祭ではなく信徒」であるならば、同じくどうしてカトリック青年は「司祭になる」ことに惹き付けられるだろうか。「中心である平信徒のままでいいや」と考える方向に行っても不思議ではないと言うべきではないか。

④ そして、もし糸永司教様の言うように、「人類はイエスの受肉それ自体によって既に根源的に救われている」ならば、どうしてカトリックの司祭と信徒は「司祭の減少」を真に嘆くことができるだろうか。

 「だって、第二バチカン公会議がそう言ってるんだもん」?

 だから、私は言っているのです、「もう少し "自分の頭で考える" ということを取り戻してみては如何ですか?」と。

 第二バチカン公会議のそれらの "愛のレトリック" は不思議と同じ方向のベクトルを持っていると見るべきである。それは「司祭の減少」へと向かうベクトルである。

 しかし、本当は不思議でも何でもない。何故かと云うと、世の神父様方には信じられないかも知れないが、それらは全て教会の敵が仕掛けた「思想誘導」だからである。彼らが数百年前から練りに練っていた計画の中から出て来たものだからである。しかし、「敵」について少しも研究しないあなた方には、そのようなことが容易に信じられない。「あり得る」とさえ思えない。土台無理である。関心さえ持っていないのだから。

 従って、100年単位の彼らの計画の中では、ほとんど「歴史」の大きさを持ったそれの中では、世の神父様方は「井の中の蛙」である。

注)「歴史」と言ったが、彼ら(フリーメイソンら)を誉めているわけではない。単に「規模」を言ったのである。

勝れた知覚力を持った聖職者は文字通り "一握り" だ。

【参考資料】シゴード司教のタルディーニ枢機卿への意見書:第二バチカン公会議ですべきこと

ユダヤの影響 2 The Plot Against the Church by Maurice Pinay

ただし、一つや二つ読んだくらいで何か結論めいたことを呟いてはならない。或る程度、継続的に調べなければならない。

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