2014.10.19

「信仰」 のためにも 「言語感覚」 をしっかり持つこと Part 1

洗面器にいっぱいの言葉に頭を埋める司祭

下手な絵ですが、司祭が多くの言葉の中に頭を埋めている図です。

 私は思うのです。信仰者は「信仰」についていろいろ考える前に「言葉」というものについて知った方がいいと。

 (1)人間というのは言語的な生物である。
 (2)その上、カトリックというのは極めて言語的な宗教である。
 (3)だから、カトリック信者というのは二重に言語的である。

 (1)だけでも人間は危ないのです。世俗世界の詐欺師たちは人々を騙していますが、何を使って騙しているかというと、もちろん「言葉」を使ってなのです。「言葉」以外にもいろいろな道具を使うでしょうが、しかし第一の道具、主要な道具は「言葉」です。
 このようなことは「言語的生物・人間」ならではのことです。犬も猫も、言葉で騙したり騙されたりしません。「言葉」は確かに人間の “強み” ですが、それと同時に実は大いなる “弱点” でもあるのです。大きな “落し穴” ともなり得るものなのです。

 その上、カトリック信者は(2)なのです。カトリック信者は「言語的生物・人間」である上、更にその「宗教」に於いて多くの「言葉」に取り囲まれています。

 しかし、問題があります。それは、「それほど多く『言葉』に取り囲まれ、それに大変親しんでいるのだから、“カトリック信者” なる種族は『言葉』に大変敏感だろう」と思いきや、実はそうでもないということです。

 そのことを、私は『現代世界憲章』『ノストラ・エターテ』『信教の自由に関する宣言』などの文言にじかに当たることによって確認して来たつもりです。すなわち、私の見るところ、それらは明らかに《 「言葉」 を巧みに compose した delusion 》ですが、それにも拘わらず、世の多くの神父様方は、それらを《 “善い心” の人達が書いた “善い文章” 》だと信じているのです。信じ “込んで” いるのです。

洗面器にいっぱいの言葉に頭を埋める司祭

 「熱心」なのは良いことです。しかし、もしあなたの「言語感覚」が危ういものなら、この行為↑自体が危険なものになるでしょう。その時、あなたの船「熱心丸」或いは「徹底丸」は、何処に向かうでしょうか? 皮肉なことに、「熱心」であればあるほど。

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