2014.10.19

「信仰」 のためにも 「言語感覚」 をしっかり持つこと Part 2

よく読んで頂きたい

 ある人が次のように言っています。よく読んで頂きたい。私はこの言葉を池長大司教様に、そして全ての神父様方に推奨します。

生命と愛の書、すなわち聖書をほとんど知らない人達は、今世界をうろつき、選ばれた者達をさえ騙そうとしている偽の証言者達の恰好の餌食となるでしょう。あなた方は文章によって欺かれないように、あなた方の聖書をよく読まなければなりません。聖書は、こちらから少し、あちらから少しと、部分的に引用されればいいというようなものではありません。あなた方はその全体を知らなければなりません。というのは、サタンは多くの者の心に毒を盛ったからです。そして、サタンというものは、聖書を説明することさえできるのです。

Those who have little knowledge of the Book of life and love, the Bible, will fall easy prey to false witnesses who go about the world now, deceiving even some of the elect. You must read your Bible so that you will not be deluded by the written word. The Bible cannot be taken as sectional or piece by piece, but you must know the whole, for satan has poisoned many minds. And Satan, too, can expound the Scriptures.

 池長大司教様が「聖書を知らない」なんてことはあり得ません。しかし、「こちらから少し、あちらから少し」という態度は、正に池長大司教様のものです。

 因みに、私も池長大司教様が退任なさったことを知っています。私はこれでも神父様方の “霊的職位” の尊さを覚えています(彼らはそれの故に責任重大ですが)。だから一応、一言ご挨拶申し上げます。「池長大司教様、長い間ご苦労様でした」
 しかし、この場所に於ける私の姿勢にほとんど変化はありません。第二バチカン公会議期の一人の司教様が退任されても、その影響が直ぐになくなることはないからです。霊的、精神的に。そして現実的にも、退任された司教様というのは、お元気なうちは往々、教会の大事な日には、教会や会場にやって来られ、共同司式し、会衆に挨拶し、そしてご自分の後任の司教様に何事か話したりするものです。(どうぞ、そうして下さい。でも、私はその影響を心配します。──札幌司教区でも)
 それで、私は今後も話し方を変えるつもりはありません。第二バチカン公会議期の司教様たちの “遺産” は甚大だからです。

 さて、以下に書くことはほとんど今まで書いて来たことの繰り返しです。しかし私は、同じような事を繰り返し書くことは或る程度必要だと考えています。何故なら、私は〈司祭服を着た分からず屋〉さん達のために書いているからです。

 上に紹介した言葉を、私は次の人達に捧げます。

 ① 聖書に対して “得手勝手な読み方” をした池長大司教様に。(彼のその “模範” が後輩の司祭たちに受け継がれませんように)

 ② 聖書の中に峻厳な主の聖言があるのに、その “愛の警告” があるのに、不実な “神学” に乗せられて信仰を “料理” し、「人類は既に根源的に救われている」という結論に同意した糸永司教様に。

 ③ 必ずしも「言語感覚」が鋭くない、いわば「言語的油断」の多い、第二バチカン公会議とその周辺の “神学” を善意で読むことしか知らない全ての神父様方に。

 ・歪められた言語感覚: 今や日本国憲法も「福音的」!
 ・教会を「しるし」と呼べば教会は衰退する

 彼らの composition(作文)に他愛なく丸め込まれてしまう全ての神父様方に。
 パタパタと粉を振られた(粉飾された)“厚化粧の文章” というものがあるということを、どうも少しも感じていないらしい全ての神父様方に。参照

 さて、上に紹介したその言葉は何ですか。
 ベイサイドです。

注)ベイサイドの問題は教会に於いて終わっていません。その問題は教会に於いて始まってさえいないのです。参照

 そのベイサイドの言葉に、以前も紹介した故ルイジ・デルコル神父様の文章を添えます。(これも池長大司教様に捧げます)

(…)聖ペトロがその第二の手紙(1・20-21)で忠告していることを決して忘れてはならない。では次にその個所をかかげよう。

 「まず、聖書のどんな預言も自分勝手に解釈してはならないことを知らなければならない。預言は、かつて人間の意志から出たことはなく、聖霊にみちびかれたある人が神によって話したものだからである」と、そこには記されている。

 したがって、自己流の解釈にならないためには、すなわち、その解釈に個人的な見解をさしはさまないためには、ここと関連のある聖書の他の個所によって解釈しなければならないのは当然である。

ご存じですか? 42「教会の絶えざる信仰」 pp. 15-16

 注)文中、「予言」となっていたのを「預言」と直しました。

 デルコル神父様はベイサイドを信じませんでした。第二バチカン公会議を信じていました。しかし、それはここでは問題ではありません。何故なら、ベイサイドの聖母が仰っている事とデルコル神父様が仰っている事は、同じ事(意味)ですが、私達にとって本来「常識」程度のものとなっていなければならないものだからです。信仰的常識。

 しかし、第二バチカン公会議期の司教様方は「常識」を “冴えないもの” と思ってか、「高度な神学」の方に魅了されました。しかし、真実のところは、何のことはない、“神学山師たち” に騙されたというだけです。(あなた方数名のことではありません。全世界的にそうだったのです。信じられない? 理不尽? しかし、災害や暴力によって多くの罪のない子供たちがその生命を奪われます。人間の目には “理不尽” としか映らないようなことがこの地上には多々あります。“教会内の災害” も「ある」でしょう。私達は現象を正直に見て、「天主様はそれをお許しになった」と知ります)

 上で既にリンクしましたが、ここで改めて、〈彼ら〉の「宗教政策」を振り返っておきましょう。

ゴイムの指導者になるよう訓練を受けた我々の賢者らが、スピーチ、企画書、回想記、論説などを組み立て、我々はそれらを用いてゴイムの精神を感化し、我々が彼らのために決めておいてやった物事の理解の仕方や知識の方へと、彼らを誘導するだろう。

(管理人訳)

Our wise men, trained to become leaders of the GOYIM, will compose speeches, projects, memoirs, articles, which will be used by us to influence the minds of the GOYIM, directing them towards such understanding and forms of knowledge as have been determined by us.

ユダヤの影響 6 彼らの「人心操作」の道具 ── “言葉”

 ・<常識> 「シオンの議定書」はただ本物であるだけである

つまり、──私は大きな声で言います──

彼らの「宗教政策」の多くは「言語政策なのです。

 だから、「信仰」が大事なのは勿論ですが、「言語感覚」も非常に大事です。あらゆる本が、思想が、「言葉」で書かれているからです。或る神学なり論述なりが「正しいものではない」と気づくためには、どうも「信仰以前」の言語感覚も必要なようです。(或る意味、当り前の話です)

残酷な想起をするならば、言語感覚の確かでない人というのは、
話しているうち、しまいにはこんなことを言ったりします。
どうしてそんなに言葉にこだわる?(その頁の最下段)

 最後に、ついでに、ベア枢機卿の著書の表紙を貼っておきます。
 (「読んでみなければ分からない」と言う人もあるでしょうが、「表題だけで十分」と思う人の方が幸いでしょう)

 
 

ユダヤの影響 3
『ノストラ・エターテ』の起草にはブナイ・ブリスの指導者が関わっていた。そしてその導き手はアウグスティン・ベア枢機卿であった

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