2014.11.12

手による聖体拝領
各国は『メモリアーレ・ドミニ』の文言を踏み倒して進んだ Part 1

“脱法的” 聖体拝領

もしこの「脱法」という言葉が《法律にまともに触れているかどうかは議論が待たれるところだが、しかし極めて疑わしいもの》というほどの意味ならば、第二バチカン公会議後の各国に於ける「手による聖体拝領」の導入は十二分にそれである。

神父様方、あなたは様々な学問的「論」に惑わされることなく、その導入に於いて実際どのようなことが起こったかを、その生きた現実を、同じく生きた人間の目を以って見直してみるべきではないのか。(庶民の方がマシではないのか。彼らは少なくともこう言うだろう─「胡散臭い!」)

 私は今、記事「手による聖体拝領について」の冒頭でこう書いたことを少し恥ずかしく思っています──「手による聖体拝領について、日本のカトリック教会は聖座から正式に承認を得ています」。
 「正式」などという言葉を使うべきではありませんでした。(修正しましたが)

 確かに、何と言いますか、外面的手続き上、行政的手続き上は、「日本の司教協議会の申請に答えて、使徒座は一九七〇年六月二十七日、聖体を手に授けることを許可した」参照のではありましょう。だから、この意味では確かに「正式」とも言えるかも知れません。
 しかし、その行政的手続きそれ自体の中に、大きな、いわば「脱法性」が含まれているとしたら?

「脱法」という言葉を使えば学問的頭の人が「法」という言葉に喰いつきそうだと云うなら、「非常にいい加減」と言い直してもいいのですが。

 それは、一言で言えば、教書『メモリアーレ・ドミニ』の次の文言との関係に於いてです。

聖体を信者の手に授けるという今までと異なった仕方がすでに導入された場所においては、聖座は現状の情況の中で、しばしばより一層困難となっている司牧的任務を果たす司教団を助けるために、この司教団にあり得る特殊な状況を入念に調べる義務を託する。

教令『メモリアーレ・ドミニ

 『メモリアーレ・ドミニ』は「手による聖体拝領」に道を開きましたが、しかしそれは上のような形に於いてだったのです。上の下線部が《前提》となるものでした。その特別許可(Indult)を与え得る《対象》は、あくまでそれだったのです。

 しかし、世の「法学先生」たち・・・(また言うのか。しかし私は本当に世の「インテリ」たちのことが歯痒くて仕方がありません)

 私は思い出します、昔、日本で指針『あがないの秘跡』の公式訳が出た後、頬白親父さんのところで「セルフ・インティンクション」についての議論が活発に行なわれた時、HN「新潟司教」という人が現われてこう言ったことを。「書かれていない事は、排除されず、書かれたことにも例外の可能性があります」キャッシュ

 私は、世の「法学先生」たち、その頭のいい人達が、この「書かれたことにも例外の可能性がある」ということをどこまで拡げるのか知りません。

 「可能性」ということを言うなら、その「脱法性の可能性」も、また、──私はこれを言うことを少しも恥としません──「教会内の “腹黒人” たちの存在可能性」をも、sensitive な指を以って検証すべきなのだ、と私は思います。

『メモリアーレ・ドミニ』

「すでに導入された」の部分

羅語

Sicubi vero contrarius usus, sanctam nempe Communionem in manibus ponendi, iam invaluerit,

Google翻訳によれば、iam invaluerit = has already grown

英訳

prevails  (EWTN)

already prevails  (Bishop Laise)

has already developed  (Catholic Tradition)

仏訳

Mais là où s'est déjà introduit un usage différent - celui de déposer la Sainte Communion dans la main -  (Cérémoniaire)

Google翻訳によれば、s'est déjà introduit = has already introduced

 早い話、各国の司教たちは、彼らの希望の前進に於いて、これを《踏み倒して》進んだのです。

 もちろん、彼らがそうなるように〈水を向けた〉ものがあるでしょう。それは一言で言って「外国」からの影響でしょう。日本人が日本人の頭だけを以ってこの明らかな文言を無視するとは思われません
 イエズス会のアドルフォ・ニコラス神父のような人が日本人司祭たちに〈働きかけ〉たのかも知れませんし、またドイツのトリーア典礼研究所参照などから〈流れ来る〉あるいは〈持ち帰る〉影響力があったでしょう。とにかく(特定は難しいとしても)「典礼聖省は実際はそんなこと気にしないよ」と〈入れ知恵〉したものがあったでしょう。
 そして、典礼聖省自身も、自身の教書を事実上〈無力化〉するという「インチキ」を働いたということでしょう。

 とにかく、「観察」─「見ること」─ に入りましょう。
 (私は、「学問的」よりも、この方がずっと大事だと信じます)

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