2014.11.16

手による聖体拝領
各国は『メモリアーレ・ドミニ』の文言を踏み倒して進んだ Part 6

 次に、マイケル・デイヴィス氏の言葉を見てみましょう。

マイケル・デイヴィス氏

『メモリアーレ・ドミニ』が明確に意味したのは、1969年5月までに手で受ける聖体拝領が確立してしまっていた場所に限り、その乱用を大目に見ようということでした。ところが、バチカンは道を譲り、その習慣が確立されるかも知れない所にはいつでもどこでもそれを承認するようになりました。

管理人

いつでもどこでも(wherever
and whenever)
ですって。
 しかし、本当にそうです。

Mr. Michael Treharne Davies

Wikipedia-en 氏の諸論考

Bishop Romeo Roy Blanchette

Catholic-Hierarchy

Wikipedia-en

この最重要点はイリノイ州ジョリエットのブランチェット司教によって提示されました。全米カトリック司教協議会が1977年この問題を討議した際、ブランチェット司教は「バチカンが承認した手順というのは『もし反対の方法〔手による聖体拝領のこと〕が普及していれば、聖座に許可を願える』というものである」と指摘しました。「司教たちは先ず第一の段階を踏まなければ第二の段階には進めない」ということを彼は指摘したのです。

〔ブランチェット司教様の証言〕

私は「私たちは今、聖座に請願を出したいのかどうかについて討議しようとしており、そしておそらくそれについて投票もするのでしょうが、私たちはその反対の方法が普及していることをまだ確認していません」と言いました。また、「そうするための簡単な方法は、司教たちに彼らの教区で反対の方法が普及しているかどうかを尋ねることです」とも言いました。司教は教区の牧者ですから、それについて知っている筈でした。彼は従順であることを要求されており、彼の司祭たちも同じく従順であることを要求されているわけですから、もし反対の方法が普及していることを誰かが知っているとすれば、彼〔司教〕が知っている筈でした訳注1。それで、私は議事案が修正され、第一の段階、つまり反対の方法が普及しているかどうかを調べ、その確認ができてから次の段階に進むことを要求しました。論理的に言って、もし第一の段階が確認できなければ、どうして次の段階に進むことができるでしょうか? これが私が出した動議でした。
(National Catholic Register, June 12, 1977.)

Communion in the Hand and Similar Frauds PDF / HTML

 まったくその通りです。これはライゼ司教様Part 4もマリ-ジャック神父様Part 5も口を合わせて言っていたことです。

 さて、それで、ブランチェット司教様たちのまったく理に適った動議はどう扱われたでしょうか。続きです。

ブランチェット司教の動議は他の5人の司教から書面によって支持され、議長によっても承認されました。規則によれば記入投票(a written vote)するはずでしたが、改革主義者たちはそれに反対し、挙手によって、議長を降ろすことを票決しました。のちにクロル枢機卿でさえ、これほど重大な問題に関する動議を排除した議会的技巧(a parliamentary device)を非難しました。故に、この投票がどれほど合法的だったかと疑問に思うことは全く道理に適ったことのように思われます。それから、もちろん、その改革を採用させるために他の普通でない手段も取られました。引退した司教たちは投票することを妨げられました訳注2。また、可決するための票数がまだ足りない時、必要数に届くまで、欠席司教たちの賛否が確認されました。

Communion in the Hand and Similar Frauds PDF / HTML

 まだどういうことなのかよく見えません。その「議会的技巧」なるものについて。

訳 注

[1]

当時、司教区のどこかで「手による聖体拝領」が実践されているとすれば、それはすべて「未承認」のものでした。それは、普通には考えられないこと、いわば「異常事態」でした。だから、司教がそれに気づけば、それを問題視したでしょうし、司祭が気づけば、それを司教に報告したでしょう。「従順」のラインに乗って、そのような異常事態についての情報伝達がされたでしょう。

[2]

Retired bishops were prevented from voting,
ここはちょっとどういうことか分かりません。と云うのは、他の人達は逆のことを言っているからです。例えば、イエズス会のジョン・ハードン神父様は「退任した司教や死なんとしている司教までが投票をせがまれました」と言っておられるし参照、また次回に紹介する記事もそのように言っているからです。
そこで私は、デイヴィス氏の著作に言及しているアメリカのカトリック・サイトの幾つかにメールで質問してみました。その一つから次のような回答を得ました。

お問い合わせとマイケル・デイヴィスの本へのあなたの関心に感謝します。矛盾した引用に関して私が推測できる唯一のことは、デイヴィス氏は手による御聖体拝領に対して確実に「ノー」の票を投ずるであろう保守的傾向の司教たちのことを言っていたのであり、他の二人はそのような革新に賛成であることが知られていた司教たちに対する勧誘のことを言ったのであろうということです。残念ながら、私はデイヴィス氏(RIP)に直接尋ねることができません。この回答が十分であることを望みます。神の祝福を。

書誌情報
デイヴィス氏は『Liturgical Revolution: Pope Paul's New Mass』という本を書いています(初版はおそらく1980年)。その中の第22章が「Communion in the Hand」です。それは日本ではフマネ・ヴィテ研究会によって翻訳されています。参照
その中で彼はこう書いています、「手で受ける聖体拝領について、私はすでに五十二ページの小冊子を書いているので、詳しく知りたい方はそれを読んで下さい。1 」。注を見ると「 1 On Communion in the Hand and Similar Frauds, … 」とあります。私が上で試訳したのがこれです。
しかし、その二つの文章はほとんど同じなので、私はフマネ・ヴィテ研究会の訳を大いに参考にさせて頂きました。感謝。

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