2014.12.08

『メモリアーレ・ドミニ』自体がインチキな文脈を持つ
Part 3

 (前回からの続き)

 そしてそれから、前回の流れは更にこのように続くのです。

 『各司教協議会宛の書簡』

⇓

私達はもっと簡単な方法を採用することもできます。それは、信者に聖器の中のホスチアを直接取らせることです。

提案していた  Part 1

 「この言葉は数年後からは『書簡』から削除されるようになったのだからいいだろう」ということにはなりません。何故なら要するに、「手による聖体拝領」(私達が通常思い浮かべるところの)はおろかこういうことさえ是とする人達によって『メモリアーレ・ドミニ』の最終的な方向性が決められた、ということだからです。

 『メモリアーレ・ドミニ』の中盤の伝統的な部分に関しては、マリ-ジャック神父様やジョン・ヴェナリ氏などは、そこに教皇様の御意向の反映を見ているようです。私自身はその部分さえ誘導のための彼らの偽装ではないかと疑ったものでしたが、もしかしたらお二人の言うことの方が正しいのかも知れません。

 しかし、私達は「いずれにせよ」と言うことができます。いずれにせよ、重要なのは「中盤の文章が誰のものなのか」ということではなく、『メモリアーレ・ドミニ』の最終的な方向性が中盤の伝統的な部分に「反して」おり、『書簡』の削除された部分に至っては更に(目も当てられないほど)「反して」いるということです。

 そうではありませんか。誰がこれを否定できますか。それらの文書が持っている最終的な方向性は、すなわちそれを導いた者らの精神は、「聖体の小片に至るまで配慮すべしという教会の常なる教え」を気にする精神ではありません。「聖体授与の新方式から生じ得る、祭壇の尊い秘跡に対する尊敬の低下の危険、冒涜の危険、そして教義の変質の危険など」を気にする精神ではありません。

 何故なら──しかし、説明が必要でしょうか?──

「舌に受ける御聖体拝領」

「手で受ける聖体拝領」

「信者が自ら聖器から聖体を取る聖体拝領」

 ──と進むに従い、御聖体を痛める可能性は明らかに漸次増大するからです。(「相対的」ではあっても、確実に。)

 ですから、これらの文書は、部分に於いてではなく全体として、非常に「いい加減な」「テキトーな」「インチキな」流れを持っていると言うほかありません。

 私は、上のような形容詞を、第二バチカン公会議の幾つかの文書(現代世界憲章ノストラ・エターテ信教の自由に関する宣言)にじかに当たった時にも、しばしば出さざるを得ませんでした。

smoke signals

各画像にリンク有り

 今回の『メモリアーレ・ドミニ』+『各司教協議会宛の書簡』にしても、それは全く同様です。
 しかも、そこにあるのは、それらの文書の「文書的いい加減さ」ばかりではないのです。世界の各司教協議会は、その「いい加減な文書」をさえ更に「いい加減」に「踏み倒して」進んだのです。
 (各国は『メモリアーレ・ドミニ』の文言を踏み倒して進んだ

 もう、何が何やら。「いい加減さ」のオンパレード。
 「第二バチカン公会議の時代」=「いい加減の時代」です。

 しかし、本来私などよりずっと優秀である筈の神父様方は、悪魔によって頭に霞[かすみ]をかけられて、この事が分からないのです。

 以上の情景を見て思わず笑いたくなった人もあるかも知れませんが、これは重大な事です。教会は、なんとか天主の教会であり続けているとしても、病気なのです。重篤な病気。

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