2014.12.09

荒らされた葡萄園

 ピオ12世教皇様をして「20世紀最大の教会博士」と言わしめたドイツのカトリック哲学者ディートリッヒ・フォン・ヒルデブラント氏の1973年の著書『荒らされた葡萄園』の切れ端をネットの中に拾いました。私に訳されることで、この偉大なカトリック教徒の文章が安っぽくなってはいけないけれど、しかし日本ではあまりに知られていないので、彼はどんなことを言っていたのか、その触りだけでも知るために、訳してみます。(彼のこれらの言葉は今から40年前のものであることに注目して下さい)

荒らされた葡萄園
The Devastated Vineyard
(1973年)

By
ディートリッヒ・フォン・ヒルデブラント
Dietrich von Hildebrand

はじめに

氏の1967年の著作『神の都市の中のトロイの木馬』

今日私達は、聖なる教会の状態を最早「神の都市の中のトロイの木馬」とは呼べなくなっている。トロイの木馬に隠れていた敵たちは外に出て来て、フル回転で破壊の仕事に勤しんでいる。その伝染病は、キリストの精神と聖なる教会の精神に関する、かろうじて認識可能な誤謬や偽造から更に進んで、今や最も目に余る異端と冒涜にまでなっている。

しかし他方、評価すべき有望な改善も見られる。聖なる教会を脅かす教会内部からの危険は、更に更に認識されつつある。「刷新」とか「現代化(アジョルナメント)」とかまた「ゲットーからの脱出」とか云ったスローガンに最初は騙されていた多くの人々も、正統信仰に戻りつつある。聖なる教会の破壊とキリスト教精神の偽造に対して反撃を加える様々な運動が起こっている。そしてとりわけ、高い教会位階に居る人達も、今、声を上げ始めている。今日の状況は益々はっきりと、これがサタンとキリストの間の闘いであることを、この世の精神と聖なる教会の精神との間の闘いであることを、表わし始めている。

この本の目的は、まず第一に、今日、「成人に達した」「現代的な」人間への成長 [訳注1] などと言い表わされている信条の間違いを、簡潔に、はっきりと描き出すことである(その「成長」なるものは、教会の教えを従来通りに受け取っているとはもはや期待できないような種類の人間への成長である)。それらは、実のところ、大して新しくない誤謬である。そして、それらの中の幾つかは、トレント公会議によって、或いは第一バチカン公会議によって、はっきりと断罪されたものである。だから、私達がここで話すのは、「忘れられたアナテマ」について話すということであるかも知れない。そして第二に、私達は特に、大抵美しく優雅なタイトルのもとに導入されるところの、そして、信じやすいカトリック教徒たちによってしばしば見落とされるところの、隠された微妙な誤謬を暴こうとするだろう。

しかしながら、多くの人々がこれら全てについて気づきつつあること、福音書の精神と聖なる教会の精神を歪めることへの反対が日ごとに増大しつつあることは、今日の私達を希望で満たすに違いない。このこともまた、この本の中で簡潔に述べられる。

天主の啓示、奇跡であり計り知れない恵みである聖なる教会、聖人たちのこの世の精神に対する勝利、それらの栄光を背景に持ちながら、そのような重大な誤謬とそのような凡庸が教会の中に入り込んだことはどんなに災害であるかを、私ははっきり示したいと思う。そしてまた、天主の葡萄園を荒らすことに対する着実に増大する反対は一種の夜明けであること、私達の真の希望の慰めの元であることも示したいと思う。私がこれに成功するなら、この本の目的が果たされたことになるだろう。

序 論

現在の天主の葡萄園の荒廃した様を偏見なく見るなら、私達は、教会の中に「第五列」が形成されたということ、教会を組織的に破壊することを目指すグループが形成されたことに気づかないわけにはいかない(彼らは、教会権威者も含む幾らかの人達から「マフィア」とも称せられる)。私達はこのことを既に以前の著作の中で指摘した。一つのただならぬ徴候は、信仰を失った司祭・神学者・司教らが教会を離れないということである。彼らは教会に留まり、そして、実際、現代世界の教会の救世主としての役割を演じるのである。何故、彼らは公然と教会を出て行かないのか? ヴォルテール、ルナン、そして他の多くの者らのように。

彼らの組織的で巧みな教会の掘り崩しは、次のことをはっきりと証言している。これが意識的な陰謀であること、これにはフリーメイソンと共産主義が関係していること、この両者は異なるもので、他の事柄では敵対しているが、このゴールに向かっては協働していること、等である。何故そうなるかと云うと、カトリックはフリーメイソンの宿敵であると同時に、共産主義にとっては彼らの世界征服にとっての本質的な邪魔者だからである。共産主義が比類無く危険なものであることは当然だが、しかしフリーメイソンも、理論的には彼らはキリスト教とそれほど明らかに相容れなくはないとしても、「第五列」の中の歓迎された協働者なのである。

信じられないことには、この陰謀は教会の内部に存在する。教会の内部に、ユダ役を演ずるところの、司教たちが居り、枢機卿たちさえ居り、多くの司祭や修道者たちが居るのである。そのような「第五列」が存在するということは、単に権威のない私の個人的な見解というのではない。それどころか、何人かの枢機卿たち、司教たち、そして修院長たちが、個人的な会話の中でではあるが、《盲目でない限り、誰も、教会の内部に信じられないほど緊密に組織化された「第五列」が存在する、ということを見逃すなどということは出来ない》と断言しているのである。もちろん、「第五列」に文字通り属している者の数は比較的少ないかも知れない。しかし、それでも彼らは、ソビエトや中国の外交団の中に見出せるような種類の知性──もっと正確に言えば、真の知性とは別の、狡猾さとか悪賢さとか言われるべき知性──と結び付きつつ、一つの明確な目的を持っているのである。

しかしながら、手始めに、教会の破壊は二つの完全に違った動機から企図されていると強調されねばならない。一つは、すべての時代に存在した、信仰を衰退させよう、教会を破壊しようとする陰謀である。しかし現代では、他の時代とは唯一違うところがある。それは、教会を外側から衰退させようとするのではなく内側から衰退させようとすることである。これは正確に「第五列」のシステムである。それらの者は、カトリック教徒である “振り” をし、教会のオフィスに陣取り、教会の内側から、刷新と進歩の旗印のもとに、教会を破壊しようとするのである。

それらの者らとは完全に違った者らが居る。その者らは、教会をそのような仕方で破壊しようとはしない。すなわち、教会を消滅させようとは望まないのである。しかし教会を、本来の意味と本質とは全く違ったものに変質させようと望むのである。この中には、イエズス・キリストの教会を純粋に人道的な社会に変えよう、教会から超自然的な性質を抜き去ろう、教会を非宗教化し世俗化しようとする全ての者らが含まれる。彼らは、「改革」「進歩」「現代人への適合」などの標語を使う教会の敵のカモフラージュを共有している。しかし彼らは、教会を除去したいとは望んでいない。「改革」「進歩」などの標語は、単に彼らが使うトリックであるというだけでなく、彼らは本当にそれを信じているのである。

このグループの活動がもたらす結果は、最初のグループがもたらす結果と同じである。しかし動機が違っている。この後者のグループは、もし誰かが、彼らは教会を破壊しようとしていると非難すれば、熱心に抗議する。しかし彼らは、彼らが聖なる教会を材料に作りたいと望んでいる世俗化された人道的な組織はイエズス・キリストの教会と共通のものは何も持っていない [訳注2] ということを理解しないほどキリスト教の真の教えを喪失している。彼らは、もし彼らが彼らのゴールを達成したとするなら、それは教会を破壊したに等しいということを理解しない。(…)

第一章

守護者たちの無気力

今日の教会の中の、最も恐ろしく、また広範囲に広がった病気の一つは、教会の信仰の守護者たちの無気力である。私はここでは、教会を内部から破壊しようとしていたり、教会を全然別のものに変質させようとしていたりする「第五列」のメンバーたちのことを考えているのではない。私は、そのような意図を持たない、もっとずっと多い司教たちのことを考えているのである。すなわち、異端的な神学や司祭、また公的な礼拝に於ける冒涜的なパフォーマンスなどに対して介入すべき時に、自分の権威を少しも用いようとしない司教たちのことをである。彼らは、彼らの目を閉じるか、ダチョウを真似るかして、重大な乱用を、彼らの介入の義務への呼びかけを、無視する。或いは、出版物やマスメディアによって叩かれることを、「反動的である」「心が狭い」「中世的である」などと中傷されることを、恐れる。彼らは天主よりも人間を恐れている。彼らは聖ヨハネ・ボスコの次の言葉に該当する。「悪人のパワーは善人の臆病によって生きる」

権威を持った人達の無気力は、教会の外でも、この時代に蔓延した病気である、というのは確かに真である。それは人の親たちの中に見出される。カレッジや大学の総長たちの中にも。数多の組織の長たちの中にも。州その他の裁判長たちの中にも。しかし、この病気が教会の中にさえ浸透したという事実は、この世の精神に対する闘いが、今や「現代化(アジョルナメント)」の名の下、時代の精神と並走することに置き換えられてしまっていることの明らかな徴候である。そのような数多の司教たちや長上たちの無気力を思う時、私達は、狼が居るのに自分に任された羊の群れを見捨てる雇われ人をイメージせずにはいられない。それは、彼ら自身はまだ正統的な信仰を保っていてもである。彼らは、彼らの司教区や修道会に於けるどのような目に余る異端や乱用にも、それに反対して介入する勇気を持たないのである。

しかし、そんな中でも最も腹立たしいのは、彼らが、異端に対してはそのように無気力であるに拘わらず、正統信仰のために戦っている信者たち、本来その司教たちがやらなければならない闘いを戦っている信者たちに対しては、厳しい権威主義的な態度を取るのを見る時である! 私は以前、或る一人の教会位階の高い位置に居る人が書いた書簡を読むことを許されたことがある。それは、真の信仰のために、教会と教皇の純粋で真実な教えのために、英雄的に起ち上がった或るグループに宛てられたものであった。そのグループは、聖ヨハネ・ボスコ言うところの「善人の臆病さ」を克服した人達であり、そして本来、司教たちの大いなる喜びとされて然るべき人達であった。然るに、その書簡にはこう書かれていた。「良いカトリック教徒として、あなた方はただ一つのことをしなければなりません。ただあなた方の司教様が打ち出された布告に従って下さい」

「良い」カトリック信者に関するこの種の考え方は、現代の平信徒たちは成人に達しているということが絶えず強調されていることを思う時、特に驚くべきものだが、しかし次の理由で、その考え自体が間違っている。ローマによって即座に非難されるべきどのような異端も起こらないような時代には適当なものも、異端が非難されることもなく教会の中に荒廃をもたらし、司教たちさえそれに感染し、そうであるにも拘わらずその司教たちが聖務に留まるような時代には、かえって不適当で非良心的なものになるのである。例えば、アリウス派の異端の時代、司教たちの大部分がアリウス派になった時代に、信徒たちは、異端と戦うよりも、それらの司教たちが打ち出した布告に、物分かりよく、自分たちを従わせるべきだったか? その抵抗は、司教に対する従順よりも高い位置が与えられるべき教会の真の教えに対する忠誠ではなかったか? 信徒たちが起こした抵抗は、正確なところ、教会教導権から彼らが教えられた啓示された真理に対する彼らの従順ゆえではなかったか? 彼らは、説教壇から話されはするが教会の真の教えとは完全に相容れないものに対処していたと考えられるべきではないか? 或いは、「教会は哲学と神学に於いて多元主義を受け入れなければならない」と主張する、或いは「死後の生存などというものは有りはしない」と主張する、或いは、性的乱脈は罪であることを否定する、或いは、公共の場での不道徳行為の表示さえ大目に見る、そして、それによってキリスト教の深い善徳である純潔についての哀れな無知をさらけ出す、そのような神学者たちが教師として雇われ続けていた場合はどうなのか?

それが司祭であれ平信徒であれ、異端者たちの妄言は大目に見られる。司教たちは信徒たちに毒を盛るものについては黙認する。しかし彼らは、正統信仰のために起ち上がろうとする忠実な信徒たちは黙らせたい。全ての面で、彼らの「心」の喜び、彼らの慰め、彼らの無気力を克服するための力の源泉と看做されるべきその人々については、黙らせたいのである。それどころか、そのような人々は「平和を乱す者」と看做される。そして、もしそのような人々が熱心の余り、少しばかりわれを忘れたり、自分の考えを無愛想気味に、或いは誇張気味に表現したりすると、不適格者として締め出されたりさえする。これらの事は、自分の権威を正しく使おうとしない司教たちの怠慢の裏には彼らの臆病があることを示している。と云うのは、彼らは正統派の人々に何ら恐れを感じないからである。正統派の人々はマスメディアや出版物をコントロールしないし、世論の代表者たちでもない。そして、彼らの教会権威への服従のために、正統信仰の戦士たちは決して、いわゆる「進歩主義者」たちほどは攻撃的ではない。もし彼らが非難されるか罰せられるかしても、彼らの司教たちはノーリスクである。それによって自由主義的な出版物に叩かれたり、反動的だとして中傷されるようなことはない。

天主が彼らに与えた権威を利用することに於ける彼らの怠慢は、実際的な結果として、今日の教会に最大の混乱をもたらしている。何故なら、この怠慢が、霊的な病気と異端、天主の葡萄園の潜在的な荒廃と露骨な荒廃を捕獲しないというばかりでなく、それらの悪に自由を与えさえしているからである。聖なる信仰を守るための聖なる権威を使わないというこの怠慢は、必然的に、教会の崩壊を招く。

全ての危険の出現に関してと同様、ここに於いて私達は「principiis obsta(悪はその元から断て)」と言わなければならない。悪を放置すればするほど、それを根絶することは難しくなる。このことは、子供たちへの躾に於いても、精神生活に於いても、そして個人の道徳的な人生のための特別な方途に於いても、真である。そしてそれは、信徒たちの利益を守るための教会権威の介入ということに於いて、尚一層、真である。プラトンが言っているように、「悪がまったく繁茂してしまってから(…)それを排除しようとすることは、決して愉快な仕事ではない」。

「物事の多くは、荒れ狂い、最悪に至るまで、束縛を受けるべきではない」、或いは、「当人たちが自ら納得するまで、私達は辛抱強く待つべきだ」などと考えることほど、大いなる誤りはない。これらのセオリーは、思春期にある若者たちに関しては、時に正しい場合もあるかも知れない。しかし、bonum commune(共通善)にまで適用することは、まったくの間違いである。この偽りのセオリーは、公的礼拝に於ける冒涜、非難されなければ無数の霊魂に毒を盛り続ける異端といった、教会の共通善に関わる問題に適用される時、特に危険である。麦と毒麦の喩えをここに適用するのは間違いである。

訳 注

[1]

「成人であること」への誘いのことは、私も以前書きました。参照

[2]

「何も持っていない」と言えば、彼らは反発するに違いありません。何故なら、彼らは、例えば、イエズス様がお話し下さった「善きサマリア人」の喩え話を愛しているでしょうから。しかし、もし彼らが「人道的」な教えを愛しながら「超自然的」な視座を失うなら、「教会」は本質的に神の超自然的な機関であるから、結局、ヒルデブラント氏の言い方も不適切ではないということになるだろうと私は思います。

後日の追記

この書が PDF 化されたものをネットで拾いました。
(222ページと223ページが落丁しているけれども)
英訳版 PDF(OneDrive or 4shared or Yahoo!Box)/ HTML

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