2015.01.14

文章詐欺 = Reality詐欺 Part 2

実例1

 どれから取り上げようと思ったが、直近に書いたジエブーラ神父の言い方から見ていこう。

御聖体を頂く方法について以上の決まりを守ることは、形式的なもののみならず、御聖体の内に秘められているキリストの現存を認める表現となり、神様に対する愛と尊敬する心の表現とならなければなりません。

「原則」 と言わず 「決まり」 と言う司祭

 これは「非現実的な構文」である。「言葉だけ」である。

 何故ならば、「立って手で受ける聖体拝領」に於ける拝領者たちの所作は、日本で云えば「卒業証書授与式」に於ける卒業生の所作と大差ないものであって(基本的に「同じ」と言っていい)、どう頑張っても、ジエブーラ神父の言う「御聖体の内に秘められているキリストの現存を認める表現」だの「神様に対する愛と尊敬する心の表現」だのと云った、そんな大層なものにはならないからである。
(「指で御聖体をうやうやしく取り上げ」ても)

 「表現」にも一定の「現実」というものがある。別の言葉で言えば「自然さ」が。
 しかし、その種の文章は、現実と自然の観点から見て「どう考えてもそうなりそうにないもの」を取り上げて、しかし言葉で「そうならなければならない」と結ぶのである。そのような無理・不自然なことをヘーキで言うのである。まるで、最後を「〜とならなければならない」と結べば何でも通るかのように。

実例2

 しかしこういうのは、なにも一人の司祭 * である人の口からたまたま出たものというのではない。それに留まらない。実はその種の不実なものの言い方は、第二バチカン公会議後の教会権威の中心部から来ているのである。教会の中心部にあるものが、ジエブーラ神父という一司祭に染み込み、そして染み出た、という恰好である。

* 私は彼をあまりこの名で呼びたくないけれども。

 教会の中心部にあるもの、その一つの例は、『メモリアーレ・ドミニ』とセットであるところの、各国の司教協議会に「手による聖体拝領」を許したところの、あの『各司教協議会宛の書簡』である。

3 信者が聖体を手で受けて口に持っていくことができるということが、このパンを普通のパン、あるいは単に祝別されたものと同様にみなす機会にならないようにしなければなりません。かえって、聖体を手に受けて拝領できるということは、洗礼と聖体の秘跡の恵みによってキリストの神秘体の一員となった信者の尊厳をいっそう深く感じ取らせ、さらに自分の手で触れる主のからだと血の偉大な現実に対する信仰をますます強めるものとならなければなりません。尊敬の心は動作に比例するはずです。

各司教協議会宛の書簡』も「妄語」から成る

 しかし現実と自然の観点から見て「手で受ける聖体拝領」が「主のからだと血の偉大な現実に対する信仰をますます強めるもの」に特にならないのは明らかである。それどころか、それはその反対の方向に人々を導く危険を大いに持っているものである。現実的にはそのようなものを許可しておきながら、言葉で、それとは反対の良いものに「ならなければならない」と結ぶのである。Once again, まるで最後を「〜とならなければならない」と結べば何でも通るかのように。

 しかし、こんなことが許されるものなら、「言葉」はどんな所にも立ってしまう。「現実」というものに十分な “根” を持つことなしに。空中楼閣的に。蜃気楼的に。

 この種の文章は「口先オバケ」である。「表現」ということに於ける “現実” と “自然さ” をねじ伏せる「ゴリ押し精神」、傲岸な「押し通し精神」である。真の sensitivity とは無縁の、一種の「暴力」である。

 この種の口[くち]は「文章詐欺師」のものであり、私達に現実を見誤らせる「Reality詐欺師」のものであると知るべきである。

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