2015.02.08

無思慮な一致崇拝 Part 5

彼らの理由(資料)

 彼らが「立って拝領すること」を選んだ理由を見てみましょう。

──と言いたいところですが、あまり見当たりません。1970年当時のカトリック新聞あたりには何か書かれたのでしょうが。

 それで、この際、彼らが「立って拝領すること」を選んだ理由に限らず、「手で受けること」を選んだ理由、そして典礼文の翻訳問題なども含めて、「彼らの理由」(所謂「インカルチュレーション」に於ける)を見てみたいと思います。

 文中の各種強調は管理人による付加。

1962年 長江恵[さとし]司教

 <第二バチカン公会議第一会期中の1962年10月28日日曜日の>記者会見では、日本の浦和司教ラウレンチオ長江からも同様の考察が発言されたが、彼が言うには、(信者30万人の)日本でカトリックが伸び悩んでいるのは、カトリックのあまりにも西洋的な表現のせいである。「日本の人口の大半を占める労働者階級に認められ受け入れられるためには、カトリック教会とは非常に現代的かつダイナミックな宗教精神であり社会的勢力であると、人々の目に映らなければならない」。カトリック教会は現代人に対して何か特別なことを発言しなければならないし、何か特別なものを与えなければならない、と彼は続けた。「現代の日本においては、カトリック教会では儀式と決められた慣習しか見ることができないため、日本の他の伝統的諸宗教と同様、現代の日本人にとっては、時代遅れで生気がなく、真面目で価値のある貢献がなにもできていないもの、と見なされている」。
 そこで彼は、人々が「司祭ともっと近しく参加する」ことが可能になるように、もっとわかりやすい典礼及びもっと直接的なアプローチを、声を大にして求めた。さらに彼は、ひざまずきの類いの要素を典礼から除外するよう求めたが、彼が言うには、それは西洋文化に由来していて日本人にとっては意味のないことだからである。「私たちの国では、尊敬を表わす場面では深く頭を下げるものなので、それをひざまずきに代用させることを私たちは好むであろう」。その他の儀礼や "しるし" にもまた、日本人には理解できないものがあるが、例えばそれは、典礼儀式において器物に接吻することである。このような慣習は徐々に減らしていくべきである、と彼は言ったが、それは「東洋においては接吻は場違いなこと」だからである。"十字架のしるし" もそんなに頻繁になされる必要はない、とも彼は言った。

 Similar considerations were voiced at a press conference given by Bishop Lawrence Nagae of Urawa, Japan, who maintained that Catholicism had made such slow progress in his country (with 300,000 Catholics) because its presentation had been too Western. "If Catholicism is to be recognized and accepted by the working class, which makes up the bulk of the Japanese population, it is necessary for the Catholic Church to appear as a very modern and dynamic spiritual and social force." The Catholic Church must have something special to say to modern man and something special to give him, he went on. "Modern Japan, seeing only ceremonies and institutional practices in the Catholic Church, considers the Catholic religion on a par with its own traditional religions, outdated and defunct, incapable of making any serious and worth-while contribution to modern Japanese life."
 He therefore called for a simpler liturgy and a more direct approach, so that the people might be able "to participate more immediately with the priest." He also called for the elimination from the liturgy of elements such as genuflections, which, he said, stemmed from Western culture and were meaningless to the Japanese. "In our country, where we make a profound bow to show reverence, we would prefer to use that motion in place of the genuflection." Other ceremonies and symbols, too, were unintelligible to the Japaneseーfor instance, the kissing of objects during liturgical services. This practice should be made more infrequent, he said, since "the kiss in the Orient is out of place." He also said that the sign of the Cross should not have to be made so frequently.

Fr. Ralph M. Wiltgen. S.V.D. "The Rhine Flows Into the
Tiber(『ライン川はテヴェレ川に注ぐ』)"
(TAN BOOKS AND PUBLISHERS, INC.)37ページから。

参照 英文

管理人コメント1

1970年 手による聖体拝領の許可申請書

日本司教協議会は、1970年5月の司教協議会総会で「聖体を手で受ける」可能性を検討し、6月2日付で典礼省にその許可を申請した。申請理由はラテン語で次のように書かれている。
「聖別されたホスチアを司祭が直接拝領者の口に置く方法は、日本人の慣習には他に類例のない親しみにくいもので、特に、このようなことに馴れていない成人してからの改宗者が少なくないことは、この問題の困難を大きくしている」。

参照

1973年 京都教区時報

 所で、日本司教団は、この例外を認める末文に重きをおいて、司祭や信徒の意見を求めずに日本の風土に合うという理由で、「聖体を手に授ける」許可を申請した。

参照

1987年 岡田武夫司教(現大司教)の文章

第二バチカン公会議はまず典礼刷新に取り組んだ。そこで典礼の国語化が行われた。ただし、それはラテン語の原文を翻訳したものである。あくまでもラテン語が規範であり、それをそれぞれの国で翻訳して使用することができるようになったということにすぎなかった。ラテン人のメンタリティで表現されたものを日本語に翻訳するということは色々な点で無理が生じやすい。色々な工夫が行われたが、依然として違和感は残っているのである。そこで、もはや翻訳に頼ることなく、独自の日本の典礼を創造する努力をすべきであるという主張が登場してきたわけである。

参照(キャッシュ

1992年 浦和司教区内の司教文書

聖体拝領の仕方について

浦和教区長 ペトロ 岡田武夫

(1)日本のカトリック司教協議会は1970年、教皇庁・典礼聖省(現典礼秘跡省)より、日本の教会において、聖体を手で受ける許可を受けました。この方法を申請した理由は、日本の文化・伝統においては、聖なるもの、尊いものを受けるときは、まず手で恭しく受けることが礼儀にかなったことであり、直接、口で受けるのはかえって失礼にあたるからです。そこで、成人がカトリックに入信するとき、できるだけ違和感を持たせないように、との配慮も加わり、各司教の判断と責任の下に、信者が手で聖体を受け、さらにそれを自分で口に持っていく、という聖体拝領の方法を採用する道を開きました。

参照(or 参照 Shift JIS

1997年 翌1998年のアジア特別シノドスのための文章

Ⅳ 教皇庁に対する特別提案
 アジアの地方教会と教皇庁との関係のあり方を再検討する。すなわち、「中央集権」(centralization)ではなく「協働性」(collegiality)に基づく関係を築き上げるシステムを検討し、地方教会の正当な自立性をよりいっそう認めることを教皇庁に要請する。例えば、司教団が認可した典礼やカテケジスなどの日本語翻訳文についてまで、教皇庁から許可を受けなければならなというのはおかしい。地域社会の福音化に貢献し、福音の文化内開花を推進し、アジアにおけるカトリック教会間に本当の「協働性」を育てるために、地方教会を信頼し、管理行政(administration)の方法などについても地方教会の主体性を重んじるべきである。

1997年7月23日
日本カトリック司教協議会

カトリック中央協議会

管理人コメント2

2003年 京都教区時報

Q ミサ中で心からお祈りするときは、ひざまずかないと落ち着かないのですが。

A 祈りの姿勢にはひざまずく、ひれふす、立つ、といったものがあるでしょう。また歌っているときに一番よく祈れるという方もいらっしゃるでしょう。自分が最も集中できる祈り方を選ぶことは、日常生活の中で一人一人が模索していくべきなのです。しかし、個人的な祈りとは違い共同体的性格を持っている教会の典礼、特にミサにあってはその共同体の一致をより深く味わい、表現していくことが求められています。日本のミサの場合、文化的に見てひざまずくという習慣はないという理解の下、従来ひざまずいていた部分を「立つ」という動作にするよう勧められています。キリスト者の共同体として神への賛美と感謝をいかにふさわしく表現することができるのかを各共同体で真剣に模索していただきたいと思います。

京都教区時報2003年6月号

2005年 松本紘一神父

今日付けのカトリック新聞に「聖体についてのシノドス」という見出しで、横浜教区の梅村司教が、最近、典礼についてローマから出された指針に対して日本の司教団を代表して希望を話されたという記事がありました。その内容は「適切な文化内開花を」という見出しで、「典礼が日本人に本当に受肉するということが課題である。日本人にぴったりとする典礼にするためにどうか自由を与えてください」ということです。典礼をその土地の文化に合った形にするというのが、第2バチカン公会議の大切な課題です。

聖イグナチオ教会(キャッシュ

2011年 ウイリアム・グリム神父(カトリック新聞の元編集長)

日本では、子供達は、「人はどんな親切にもお礼を三回言わなければならない。しかし、謝罪を三回繰り返す人は不誠実である」と教えられている。もし教会の典礼を初めて見た日本人が、無意味な言葉(meaningless words)や謝罪の言葉「mea culpa(わが過ちなり)」が三回言われるのを聞いたら、福音宣教はどうなるだろうか。

参照

2014年 典礼文の翻訳の問題

梅村司教は3月18日、典礼委員会秘書の宮越俊光さん、同委員会委員のフランコ・ソットコルノラ神父(聖ザベリオ宣教会)と共に同省を訪れ、「ミサの式次第と奉献文1~4」や「ローマ・ミサ典礼書の総則」の改訂訳などを再び提出して、日本の事情を説明した。

改訂訳はすでに、2006年と07年にも提出されている。例えば、現行のミサで会衆が「また司祭とともに」と答える部分について、日本司教団は改訂訳で「またあなたとともに」とした。ラテン語では「またあなたの霊とともに」だが、日本語で「霊」と聞けば「悪霊」などのイメージがあり、誤解しやすいとの配慮だ。

カトリック新聞オンライン

2014年 札幌の勝谷司教

第2バチカン公会議以降、聖体をひざまずいて口で受けることは公には勧められていませんが、過去の習慣などによる個人的な理由で、ひざまずいて口で受けたいと希望する信者の方もいます。聖体の秘跡の意味は、共同体の交わりと一致を表すものなので、本来なら他の信徒に合わせ、同じように立って手で受けるということが基本になると考えられます。

かてどらる

管理人コメント

[1]

まず、今は閉鎖していまっているカトリック掲示板「イエスの惑星BBS」でこのテキストを翻訳して紹介して下さった方に感謝しておきます。

さて、「長江司教様が本当のこのように言ったものだとして」と、一応 “但し書き” をした上で言いますが──

「意味がない」「理解できない」──こういうのは明らかに極端過ぎる物の言い方です。実際及び自然の観点から見て、一つの「歪曲行為」と言うに値します。カトリック司祭は〈真理追究〉の人達である筈です。しかし、意外とヘーキでこのようなことをする(言語行為)ようです。

説明が必要でしたか?──何故なら、「跪くこと」も「器物に接吻すること」も、日本人にとって「馴染みのないもの」ではあったとしても、それを見てその意味が「見当もつかない」ようなものでは決してないからです。

関連情報として次を掲げておきます。

2008年8月7日

さいたま教区北部に、第ⅡV公会議後に献堂された教会があります。跪き台のあるベンチを入れようとしたところ、当時の教区長である長江司教の強い指導が入り、普通のイスになったそうです。

参照

2010年11月3日

私の周辺では、前の教会も今の教会も、「聖なるかな」が終わると、約1名を除いて、跪きました。跪き台付きベンチが前から後ろまであり、『総則』のいう「聖変化の時に跪く習慣がある教会」だったわけです。一人を除く全員が普通に跪いていたのです。

ところが、今月から異変が起きました。

司祭がミサ中に語り出しました。

「教会には新しい人が来る」
「新しい人は聖変化の時に立ったり(ただ一人)、跪いたりしている光景を見るとどちらに従えばいいのか分からない」
「外国人は跪けるが、日本人は跪くことはできない」
「40年前だよ、長江司教が跪き台は日本にはいらないと言った。40年前だよ」
「バチカンには跪き台はない。ミサで跪く人はいない」
「皆さん、新しく教会に来た人が困らないようにするにはどうすればいいか、考えて下さい」

参照

「しるし」も同様に省略されることが多い。福音朗読の前に額と口と胸に十字を切る仕草を廃止してしまった小教区も珍しくはなくなった。一説によれば、このゼスチャーはフランスのルイ王朝が考案したものであり、日本人に模倣の義務はないとのことであるが、そもそもルイ王朝発端説の裏づけは果たして十分なのか。某修道司祭は海外留学から帰国して久々に日本でミサを立てた時、「主に栄光の時の十字は切るな」と長上から命令されたという。私はそれをご本人の口から聞いた。神父は納得がいかず、「それは一体どういうわけか」と聞き返したが、「教区の典礼委員会の決定だから従え」と一蹴されたそうである。

参照

[2]

この1998年の「アジア特別シノドス」には次のような人員が参加していたということです。

エキスパート
・小田武彦神父(カトリック中央協議会福音宣教研究室室長)
オブザーバー
・弘田しずえ修道女(ベリス・メスセス修道会)
日本の司教たちのアドバイザー
・アドルフォ・二コラス神父(イエズス会日本管区長)

中央協議会(キャッシュ

参考 小田武彦  弘田しずえ  アドルフォ・二コラス

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