2015.02.08

無思慮な一致崇拝 Part 6

「インカルチュレーション」 は世俗の慣習を参照する

以下は素人の考察です。“知的” な人々の目には単純に映る
かも知れません。しかし私は、自分で言うのも何だけど、
有効だと思います。

 私は、「インカルチュレーション」という考え方は、それ自体に初めから相当の危険を孕んでいると思います。

 何故なら、その考え方に於いては必然的に──

天主の神聖な典礼を考える際に、

日本なら日本の世俗の慣習を参照する

 ──ことが多くなるからです。そうですよね。注1

“

日本には「跪き」は不要である。
何故なら、日本人には「お辞儀」があるから。

”

 神父様方、特に「典礼学者」と呼ばれる人達は、“知的” であって、いろいろと難しい事をお考えになるようです。しかし彼らも、意外と、上のような単純な考え方と無縁ではないようです。(前回挙げたものの中にも窺われるように)

 確かに、日本人には「お辞儀」があります。

文化勲章親授式

卒業証書授与式

 しかし、日本の司牧者の皆さんは、日本の世俗の世界にも溢れている表現を神様にもそのまま適用する注2ことに、何のためらいも感じなかったのでしょうか?(そして、今も感じないのでしょうか?)

 上のこれらの場面でも、その所作は「敬意」の表現ではあります。しかし、「敬意の表現でありさえすれば何でも同じ」ということにはならないでしょう。

 と云うのは、上のこれらの場面は、どちらも、早い話、「人間事[ごと]」であるからです。〈授ける者〉と〈授けられる物〉の両方に於いて、「人間」だけが関わっています。〈授ける者〉は天皇陛下と校長先生という「人間」であるし注3、〈授けられる物〉は勲章と卒業証書という「人間の手によって作られたもの」です。注4

 では、「御聖体拝領」の場合はどうでしょうか。
 そこに於いては〈授ける者〉は「天主様」であり、〈授けられるもの〉は、人間が百億年かけても作れないもの、全知全能の天主様にしかお作りになれないもの、天使たちが「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と賛美しているに違いないもの──「天主・御子のまことの御体」です。

 しかし、「立って手で受ける聖体拝領」の所作は、上に挙げたような「人間事」の場面に於けるものと変わりがありません。天皇陛下や校長先生のところに「司祭」を、受勲者や卒業生のところに「拝領者」を持って来て下さい。何らの不都合もなく嵌まります。基本的に「同じ」です。「交換可能」なのです。

立って、お辞儀して、手で受ける。
そして、私達は不思議にもこの所作を現在の「西洋」のあらゆる教会の中に見ることができます。

日本の宗教的な慣習も参照した?

 ひょっとしたら神父様方はこう仰るかも知れません。「いや、私達は日本の世俗の慣習を参照したばかりでなく日本の宗教的な慣習も参照した」と。しかし、仮にそうだとしても、日本の宗教は「天主のまことの御体」(御聖体)を持っていないのですから、それも不完全な話でしょう。

[1]  

もっとも、例えばシスター弘田のような人は、この「神聖性と世俗性」という事についてどう思うか分かりませんが。

[2]  

私は「そのまま適用する」という言い方をすることに躊躇いを覚えません。それらは実質的に「同じ」です。

[3]  

私は日本国民の一人として天皇陛下に一定の敬意を持っています。しかしそれでも、「天皇陛下」と「イエズス・キリスト」では比べものになりません。

[4]  

それにも拘わらず、小学校の卒業証書授与式の方が、現在の御聖体拝領の場面よりも「おごそか」な気さえします。

動画: 立って手で受ける聖体拝領 小学校の卒業証書授与式

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