2015.05.11

簡素の美?

私のPCはいよいよ末期です。近々完全に動かなくなるでしょう。
もしそうなったら、私は新しいPCを買うのでしょうか?
分かりません。

さて、これは以前使ったイラストです。

洗面器にいっぱいの言葉に頭を埋める司祭

私は本当に思います。神父様方は長文をペラペラペラペラと読み(読まされ)、分かったような気になるから悪い、と。

私は、これほど「フリーメイソン」のことを書いていながら、「私達の第一の敵はフリーメイソンではない」と言いたいほどです。

では、私達の第一の敵は何ですか。
それは、「言葉」というものと付き合う上での私達の迂闊さです。「言葉」というものと「現実」の関係についての私達自身の感覚の鈍さです。知性的になればなるほど、言語的になればなるほど、そうなる傾向があります。

長文をペラペラと読むのでなく、時にはたった一つの語に、或いはごく短い句に、じっくりとフォーカスしてみればいいのです。そうすれば、「言葉」というものがどんなに不確かなものであるか、油断のならないものであるかが分かると思います。

偉そうに言ってますが、本当です。(自分で言うな)

noble  simplicity  ?

理由?  理由ですか?

儀式の中、『無益な重複(useless

repetitions)』を避け、儀式に

『簡素の美(noble simplicity)

を持たせるため。それだけ。
あ、あと、あんまり説明しなくて

も分かるようにするため。

上は先日表示したものです。
私がこれらの言葉をどこから引いて来たかと云うと、皆さんとうにご存知だと思いますが、『典礼憲章』からです。しかし、『典礼憲章』ばかりではありません。並べてみます。〔 〕は管理人。

典礼憲章

34(儀式の構造) 儀式は

簡素の美a noble simplicity

を備え、簡単明瞭であり、不必要な重複を避け、信者の理解力に順応し、一般に多くの説明を必要としないものでなければならない。

50(ミサの式次第) 儀式は、その実質を保ちながらも、より簡潔にされ(simplified)なければならない。時代の経過につれて重複するようになったものや、有益でもないのに付加されたものは削除されるべきである。これに反して、時代の変遷によって廃止されたものであっても、適切、あるいは必要と考えられる場合、聖なる教父たちによる本来の規準に従って復元されなければならない。

日本語訳(Shift_JIS) /  英語訳

日本語訳は南山大学監修の『第2バチカン公会議公文書全集』から

インテル・エクメニチ

36. 典礼行為が時代の精神とより調和した

気品ある単純さa noble simplicity

をはっきり打ち出すようになるために〔以下のものが省略されなければならない〕

日本語は拙訳  /  英訳  /  ラテン語 (AAS)

ローマ・ミサ典礼書の総則

動作と姿勢

42 司祭と助祭と奉仕者の動作と姿勢、あるいは会衆の動作と姿勢は、祭儀全体が優美さと

高貴な簡素さnoble simplicity

によって輝〔くようでなければならない〕

日本語版(PDF / HTML) /  英語版

私は、本当は、「不必要な重複」というあっさりとした言い方(本当はそう簡単に言われてはならぬものです)や「時代」という事を持ち出した言い方にも、一言二言、いや本当はたくさん言いたいのですが・・・ここは短く書きます。

一言で云って、

「noble simplicity」 などという言葉が
どんな 「確かな現実」 を引き付けますか?

ということです。

もう少し書くとします。

「言葉」は「現実」とは違います。
「言葉上の正しさ」は、本当は「ペラペラの紙」です。

典礼憲章

時代の経過につれて重複するようになったものや、有益でもないのに付加されたものは削除されるべきである。

しかし、重複、repetition、つまり「繰り返し」のことですが、「繰り返し」という「繰り返し」が、それが「繰り返し」であるというだけで「無益」と決まったわけではないのであります。

「良い習慣」は「繰り返し」で養われることが多いです。対して、「油断の隙間」は「習慣のなさ」から生じることがあります。

「典礼」と云えども、人間の心を「上へ」と導くべきものなので、「習慣づけ」とか、「再確認」とか、「再々確認」とか、「再々々確認」とかと、無縁であるはずはないでしょう。「繰り返し」を簡単に「くどい。冗長だ」と言っちゃう人は、おそらく「人間」という “漂い出がちなもの” に対する見方が甘いのであります。

そして、典礼憲章の筆者は、ただ「言葉上の正しさ」にしか過ぎぬものを打ち立てています。「有益でもないのに付加されたものは削除されるべきである」──これはペラペラの言葉上の正しさです。「有益でないものは有益でない」と言っているに過ぎないようなものだからです。

大事なのは、具体的に、典礼のどの部分が、どの「繰り返し」が、どのような理由で、「無益」と見なされなければならないのかです。それを聞いて初めて、私達は頷いたり首を横に振ったりできます。それ以前は、ただ「空気」を目の前に置いているようなものです。

しかし、神父様方は違うんでしょう?
簡単に「ふんふん」と頷いてしまうんでしょう?
「言葉」を聞いただけで。

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