2015.06.01

典礼学者

典礼学者がこう言ったのだそうです。

典礼は人間の成熟のためにあるのであって、人間が典礼にしばられてはならない。

長崎大司教区

「人間が成長するためには一定の自由が必要だ」という一文があったとします。これは一聴、人の耳に「真実」に響きます。しかし、何事も具体的に見る必要があります。「成熟」とは具体的にどういう事を指すのか、人間が典礼に「しばられて」いる状態とは具体的にどういう状態を指すのかを、私は是非聞かせて頂きたいと思います。

しかし、私の確信するところでは、典礼は人間の「成熟」のためにあるのではなく、人間の「聖化」のためにあります。人間の「成熟」のことは「人生」にお任せ下さいです。

2012年10月28日 於: 大阪梅田教会
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右は大阪梅田教会で講話するソットコルノラ神父です。彼はホワイトボードに「ミサにおけるみことばを味わおう」と書いています。

そして、普通、その事を、人々は「よくないこと」だとは思いません。そんなこと、想像もつきません。「主のみことばを味わうことのどこが悪いのですか」──そうでしょう?

しかし、私は思います、それをやれば、いわば御ミサの “組成” が変わって来るのだと。御ミサがシンプルな礼拝儀式ではなくなって、何と云うか、ぐちゃぐちゃと言語的、説明的なものになってしまうと。そして、それは必ずしも「よいこと」ではないのだと。

「礼拝の心」というものは、元々「言語 - 以前」のようなところがあると思うのです。自分の前に聖なる存在があると知ってパッとひれ伏す、或いは跪く。そういうのは殆ど「身体感覚」に近いものだと思うのです。

「言葉を失う」という言い方があります。

その時私達は、その驚くべき事を前にして、彼の善性と慈悲を前にして、言葉をなくしたようになる(feel speechless)のです。カニザレス枢機卿様

イエズス様そのものである御聖体があり、イエズス様の御生贄の再現である非常なる神秘事が行われる正にその場で、今更「言葉」をぐちゃぐちゃといじること、それについて「考える」ことは、どこか「場にそぐわない」ことのように思われます。

御ミサの中に「礼拝の善」と「言語運用の善」という二つの善があるとしましょう。しかし、もし御ミサという「礼拝の場」(私はそう思います)で「言語運用の善」が大きくなり、それが相対的にであれ結果的にであれ「礼拝の善」を縮小させるようになるなら、全体は決して「善い事」ではないでありましょう。

『インテル・エクメニチ』の中に「司牧的典礼 pastoral liturgy」という言葉がありました。私は嫌なものを感じたものです。何故なら、「司牧」というものは、御ミサの場以外の所で、宗教のもう少し一般的な所で、しておかなければならないものだろうからです。

ソットコルノラ神父の「主のみことばを味わおう」も同様です。そんなことは、カトリック信者は、御ミサの前に済ませておかなければならないでしょう。普段、常住、学んでおかなければならないでしょう。

正に「ミサ聖祭」の場に来てしまってから、その只中で、“主のみことば” であれ「言語」であるもの * に特に目を注ぐことを教え、それを「味わおう」などと提案する人、そのように或る意味「余裕をぶっこいて」いる人は、「ミサ聖祭の圧倒的な神秘」に対して自ら、不十分な意識しか持っておられないか、或いは意図的に、それを「礼拝」することから人々の心の方向性を相対的であれ逸らさせようとする人ではないでしょうか。

* こんなことを言うと人々はどう思うか知れませんが、“主のみことば” であれ「言語」なのです。対象そのものではありません。「花についての説明」は「花の美しさ」そのものではないように。「言語」とは本質的に「粗い」ものです。真の対象との間にどうしようもない一定の “距離” を持つものです。

もしミサの本文の意味に注意が向きすぎると、そのこと自体が[天主様との一致の]障害になってしまいうるのです。
ルフェーブル大司教様

“天主様のみことばであるものが天主様との一致の障害になり得る(可能性)” とは奇妙なことのように思うかも知れませんが、「言語」というものに真に敏感な人ならこれを否定しないでしょう。

しかし、彼、または彼らは、自分たちのそういう方向性を正当化するための教会文書に不足しません。彼らはすぐに『典礼憲章』の言葉を挙げることができます。また、新しいミサ典礼書やその総則の言葉を挙げることもできます。それらは実際、御ミサを「ことばの典礼」と「感謝の典礼(聖体祭儀)」とに二分し、従って、旧来の御ミサよりも御ミサに於ける言語的側面をより厚くすることを勧めています。──「全実体変化」などの言葉については、自らの口にチャックをしながら。

香部屋での着衣の祈り Part 2」では、私は「言葉は大事です」と言いました。だから、今回言っていることはそれと矛盾している、と思われるかも知れません。しかし、あれらの祈りは端的であり、また十分に定型的であって、あれらを祈っても、あれらの言葉について「考える」というプロセスは特に始まらないのです。シンプルなのです。あれらの言葉はただ、それを祈る人の心を「天主様との一致」へと上げ、適切に整えるばかりです。

私は、ふと、新しいミサが「言語」の層を厚くしたのは、ユダヤ教とも関係あるのではないかと思ったりします。ユダヤ教の儀式は、もちろん「礼拝」ではあるわけですが、しかし、たぶん「言語」主体の礼拝でしょう。そして、第二バチカン公会議とその近辺には、既に幾らか見て来たように、「ユダヤ」の匂いがあるのです。

もちろん、キリスト教(カトリック)とユダヤ教の間には浅からぬ縁があるのは事実です。しかしそれでも、その二つは「同じ」ではありません。一つ決定的に違うところがあります。それは、「御聖体」を持つか持たないかです。これによって「礼拝」の仕方が違って来るのは当然です。一つは神を呼び求めるに対し、一つは神を眼前に置くのですから。しかし、この事を軽視し、その二つの宗教に大して違いはないことにしたい勢力があるのではありませんか?

2013年10月27日 於: 大阪梅田教会
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それにしても、主の御事をこれほど情熱的に伝えたいと思っているソットコルノラ神父は、この大阪梅田教会になんの違和感も持たないのでしょうか。右は、2012年に引き続いた2013年の典礼研修会の場面です。彼は、自分の講話を始める前に、うしろを向いて深々とお辞儀をします。しかし、彼は何に向かってお辞儀したのでしょうか。そこには主の最大の御功績、最大の御苦痛、私達が彼に感ずべき最大の恩義、「跪かずにいられましょうか」であるもの、すなわち「御受難」を象徴する磔刑像がありません。その代わりに奇妙な “輪っか” が吊り下げられています。彼はそれに向かってお辞儀したのでしょうか?  或いは、祭壇に向かってお辞儀したのでしょうか?  そのかなり現代的な、「簡素の美」を持っているらしい祭壇に?  或いは、御聖櫃にお辞儀したのでしょうか?  壁に埋め込まれて目立たない(目立たなくされている?)御聖櫃に?
・・・彼はなんとも茫漠たる空間に向かってお辞儀します。

宗教的象徴についてよくお考えになるらしいソットコルノラ神父様、この教会は何を象徴しているのですか?  よしんば(仮に)フリーメイソンのシンボルでなかったとしても、あなたの愛する(らしい)イエズス様のことを十分に象徴していますか?

あなたに、この教会の建設の責任を問うているのではありません。ただ “典礼学者” としてのあなたの見解をお訊きしているのです。

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