2015.07.15

日本の司教協議会は
お仲間には「個人的な自由裁量」を許すのか

前回からの続き)

「この "釜" ではそんなの関係ない」

面白いことに──いや、全然面白くないけれど──実は、本田神父も同じようなことを言っているのです。以前紹介した『福音と世界』のインタビュー記事の中で、彼は次のように言っています。

私は、ただ単純にオープン・コミュニオンに賛成というわけではないのです。田園調布の教会や、四ツ谷のイグナチオ教会でオープン・コミュニオンをする意味はあまりないと思います。釜ヶ崎やハンセン病の施設などで行うからこそのオープン・コミュニオンだと思うのです。

『福音と世界』2009年4月号 62頁

つまり、本田神父やH神父様によれば、御聖体拝領の問題は「釜ヶ崎のような所では」「田園調布のような所では」と《場合分け》して考えられなければならないと云うのです。御聖体拝領の問題、つまり未信者や他宗派の人々に御聖体を与えることに関してです。*

* もっとも、私は今「未信者」と言いましたが、本田神父は釜ヶ崎の労働者たちのことをそう言いません。彼は「彼らは人生の辛い現実によって既に洗礼を受けている」と言うのです。

日本の責任ある立場の神父様方、これでいいんですか?

日本の司教協議会は
お仲間には「個人的な自由裁量」を許すのか

あなた方は最近、「新しい『ローマ・ミサ典礼書の総則』に基づく変更箇所」という文書を発表しました。その中であなた方は「個人の好みや自由裁量に対してよりも」と言っています。そして「日本では、聖別のときは、会衆は立ったまま手を合わせ、聖別の後、司祭ならびに助祭とともに深く礼をしなければならない」と、信者に対して「MUST」を言っています。
それなのに、他方、本田神父には好きにさせておくのですか。本田神父の "ミサ" がどれほど巨大な違反であり、どれほど巨大な、まさしく彼の「個人的な自由裁量」、それ以外の何物でもないものによって実行されているものであるかを、あなた方は見ない・知らない・それには触れないというのですか。

あのシスターのように、すべてを「特別」という言葉で済ませてしまうことはできません。それは全くの間違いです(こういうことをわざわざ言わなければならない?)。
何故なら、本田神父は教会司法上、何か「特別な領域」に居るのですか?──そうではありませんよね。彼はただ「大阪大司教区の司祭」であるに過ぎませんよね。
或いは、彼はいつか、未信者に御聖体を与える Indult(特免、特別許可)でも与えられたのですか? そうではありませんよね。

レオ池長潤大司教

祭壇の上にホームレスの人々を象徴する(と言われる)サンダルを置くことを許した池長大司教様には、本田神父の問題を正しく処置することは少々無理でした。(ちょっと嫌な言い方ですが)

しかし、現在の大阪の大司教様、そして第二バチカン公会議以降の聖職者にとって空気のように当り前のものになっているらしい「司教協働性」に於いて日本カトリック司教協議会、本田神父の問題は既に何年も何十年も放置されているものですが、あなた方はこの先も、これを曖昧なまま放置しておくおつもりですか?

俗っぽく言っても、そんなことでは、あなた方は信徒に「示しがつかない」のではありませんか? 「個人的な自由裁量は」云々と毎度書くあなた方は。
そんなことでは、あなた方こそ「文言適応の自由裁量者」なのではありませんか?

27(…)母なる教会は、信仰を持たない人、洗礼志願者、そして信仰から離れた人について心を痛め、彼らを愛する。しかしながら、教会は、洗礼を受けていない人に聖体拝領をさせることはできない。しかし、本田神父にはそれができる。

中央協議会Shift JIS

──とでも加筆しますか?

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