2015.07.25

現代の司祭たちの本音
「これはとんでもない話だ。とても聞いていられない」

わたしが与えるパンは、
この世に命を与えるための
わたしの肉である...

これはとんでもない話だ。とても聞いていられない。

聖ヨハネ 6:51-60

フランシスコ会訳

バルバロ訳では

「むずかしい話だ、そん

な話に耳を貸せようか」

福音書は親切に、上のように、私たちに「不信」の有様を分かりやすく教えてくれているのに、私たちの神父様方の中には、御ミサを捧げてはいても、その内心に於いて、実質的に(いろいろ理屈を言いはするが)、上の左のグループの中に居るのでなく、よりによって右のグループの中に居る神父様も多いようです。福音書が描いている上の情景は決して2000年前のものではない. . .

或るサイトから。

管理人はすでに幾人かの司祭の口から、信じられないことを耳にしています。つまり、聖体変化はもはや記念の行いであって、プロテスタントの考えるそれと同じであること。それとは、トリエント公会議で表明された全実体変化(トランスブスタンシエーション)ではなく、シンボルそのものであるということです。

キリストに倣いて

注)引用元のサイトは当サイトとは無関係です。交流はありません。

次のように「少しも不思議なことではない」と言明する神父様は珍しいぐらいのものです。イエズス会の片柳神父様。

② 実体変化の教え

 イエスの言葉を繰り返し、聖霊の恵みを願うことでパンとブドウ酒がイエスの体と血に変化するという教えは、実体変化の教えと呼ばれてきました。御聖体と御血は、聖変化の後も外見や成分ではパンとブドウ酒のままだけれども、その実体においてイエスの体に変化しているという教えです。実体と言うのは、目に見えない本質のようなものです。御聖体と御血は、単にイエスの体と血を思い出すためのシンボルなのではなく、実体としてイエスの体と血そのものだというのです。

 難しい教えですが、外見はパンであっても、その中身にはイエスの愛と命が隅々まで満ちている。だから、外見にかかわらずご聖体はイエスの体なのだとわたしは理解しています。イエスの愛と命を全体に宿しているもの、それをわたしたちはイエスの体と呼ぶのです。

 司祭と会衆が心を合わせて祈るとき、聖霊の恵みがパンとブドウ酒を満たし、パンとブドウ酒をイエスの愛と命に満ちたイエスの体に変えてくださいます。聖霊がマリアを覆ったときにイエスが受胎したことを思い起こせば、これは少しも不思議なことではありません。

マザー・テレサに学ぶキリスト教(20) エウカリスチアの秘跡 ①

ただし、片柳神父様、「司祭と会衆が心を合わせて祈るとき(聖変化が起こる)」ではないでしょう。神父様がお一人で御ミサをお捧げになる時、パンとブドウ酒は聖変化しないのですか?

「司祭と会衆が心を合わせて祈ること」が "望まれる" としても、そこを「司祭と会衆が心を合わせて祈ることで聖変化する」と言ってはならないのが言葉の世界だと思うのです。

後日追記
(2015.10.05)

一人の読者が新教会法典(1983年)の一つの条文を教えてくれました。
「第906条 正当かつ合理的理由がない限り司祭は、少なくとも1人の信者の参加も得られない場合はミサを挙行してはならない。」
しかしこれは法規上のことであり、法規は重んじられねばならないとしても、「司祭が一人でミサを捧げる時、聖変化は起きるか起きないか」の問題とは、謂ゆる〈問題の性質が別〉のことです。
しかしそれでも、この条文は “正当かつ合理的理由があれば、司祭は、1人の信者の参加も得られない場合でも、ミサを挙行する場合があり得る” ということを示唆していますから、かえって、「司祭が一人でミサを捧げる時も、聖変化は起こる」ことを言ってくれているのです。
上の本文に変更はありません。

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