2015.09.10

「人間性の問題」と「認識の問題」は別である

或いは
「道徳性の問題」と「真実性の問題」は別である

しかし、人々はいつもこの二つのことを《一緒くた》にする。
(私には「いつも」と言うことが誇張だとは思われない)

その傾向は、何か人間にとって非常に感情を刺激する問題を扱う場合に顕著に現われる。典型的な例はユダヤ人のホロコースト問題である。或る人が、その人自身として真に「認識の問題」として、「真実性の問題」として、「犠牲者の主要な死因は “ガス室” ではない。犠牲者数も “600万” と云ったようなものではない。何故なら云々」と主張したとする。すると多くの人は、その主張に「耳を傾ける」態度をまったく取らないまま、聞いた次の瞬間にはもう、こう反応するのである──「ホロコーストに於ける犠牲を矮小化することは許されない」。
何かひどく “ずれた” 反応をする。相手が「真実性」の線で物を言っているのに「道徳性」の線で返す。いわゆる「噛み合ない」こと甚だしい。

補足)歴史問題などでは「真実性」と言うよりも「事実性」と言った方がいいだろうけれども。

確かに、人間にはいろいろな人が居るから、中には、純粋に「真実性・事実性」を調べて主張するのでなく、何か隠れた目論見を持って「歪曲」を行なう人もあるかも知れない。確かに、それは一つの事である。しかし、中にはそうではなく、本当に純粋に「真実性・事実性」を調べ、そこから物を言っている人も居るかも知れないのである。だから、本来なら、人には次のような用意がなければならない。誰かが「犠牲者の主要な死因は “ガス室” ではない。何故なら云々」と、何らかの資料を出しもし、理屈にかなった推論をも展開しながら「真実性・事実性」に関して何事かを主張している時、自分も一応は、その同じ線に沿って「耳を傾ける」という態度を持つ用意が。

そのような「道徳性の問題」と「真実性の問題」を “一緒くた” にしながらものを見る傾向はもともと人間に備わっている、と言いたくなるほどである。まんざら悪い傾向ではないかも知れない。何故なら、それは人間の “善性” に基づいていると見ることもできるから(基づいていると云うか、とにかく善の心、良心というものがそもそも無ければ、そんなことにもならないだろうから)。しかし、“知性” には十分に基づいていないと言える。何故なら、“知性” は(私という人間は自分の知性をそんなに誇れないとしても)問題をその性質の違いによって「分ける」ということを知っているから。

ホロコースト問題は単なる一つの例に過ぎない。もう一つの例を挙げれば、911問題である。私も以前、当サイトでそれについて書いていたことがある。911事件には数々の、かなり客観的な疑惑があるからである。それで、私としては “真実性・事実性” の線で書いていたつもりだった。しかし、或る人の反応はこうだった──「そんなことを言うなんて、遺族の人たちの気持ちをどう考えているのですか。悲しんでいる彼らの気持ちを踏みにじるような行為ではありませんか」。
もちろん根本には、その人が911にどんな疑問も感じられていないということがあるのだが、それにしても、相手の視線の “質” を大きく見誤った返し方だと言わざるを得ない。

補足)私は「自分の話をちゃんと聞いてもらえなかったので傷ついた」ということを言っていない。「人間は往々、まともなコミュニケーションもできない」と言っている。

更にもう一つの例を挙げれば、偽シスター・ルチア問題である。マリアン・ホーヴァット博士の調査は “事実性” の線に沿ったものだった。しかし或る人たちの反応は「そんなことがあってたまるものか」というものだった参照。その人たちが教会の信頼性を守りたくてそのような反応をしたのだとすれば、やはり一種の「良心」からの反応と言えるかも知れない。

このように、「道徳心」とか「良心」と言えば聞こえはいいが、その人が「道徳性の問題」と「真実性の問題」は別であるということを知らないならば、「道徳心」と「良心」はかえって、往々、その人の「見ること」を阻害することになるのである。

また例えば、天下のカトリック信者の中にもしばしば見られるのは、次のような情景である。

人物A  

「本田神父は未信者にも御聖体を与えているらしい」

人物B  

「あなた方は本田神父を批判するが、本田神父と比べてどれだけの “行ない” をしているというのか。彼のことを批判するなら、彼と同じくらい行動してからにしろ」

このような反論は溜め息が出るほど間違っている。もし本田神父が信仰の事柄に於いて間違った事をしたり言ったりしているなら、それを指摘するのに「彼と同じほど行動していること」が資格として要求されるわけではない。極端な話、全くの怠け者が指摘したとしても、その指摘自体が正しいなら正しいのである。その指摘者の人間性が正しいのではなく、その指摘者の指摘自体が正しいのである。物事はこのようにしてしか整理されない。しかし、天下のカトリック信者の中にも、「整理」ということになどてんで無関心で、アレとコレとを「ゴッチャ」にして憚らない人たちが相当数居るのである。

また、別の要素もある。それは、人間というものが案外「不安がり」だということである。ちょっとしたことで、自分でもよく分からない「漠たる不安」を抱く。それで、「人間性の問題と認識の問題は別である」などと提案されたりすると、「何となく」不安になるのである。しかし、よく考えてもらいたい。「人間性の問題と認識の問題は別である」とすることによって、「人間性の問題」を “おろそか” にすることになりますか?

今の質問に、またもや「何となく...」と答えるのではないでしょうねぇ。

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