2015.09.10

勝谷司教様 Part 1

札幌の勝谷太治[たいじ]司教様に関する今回の一連の記事は、実は昨年中に書いていたものです。その時は文章をまとめるのに難儀したところがあって、そのまま放っておいたのでした。しかし、やはり何か言っておきたいという思いは残っていて、少し加筆した上、今回アップすることにしました。
勝谷司教様という御個人を扱わせて頂くわけですが、真の目的は「個人を叩く」ことではありません。「個人という〈具体例〉を通して、現代の神父様方に共通するだろう傾向を観察すること」です。

* * *

勝谷司教様についてもう一つのものが目に入った。書いておこうと思う。司教様は2014年の聖木曜日のミサ説教で次のように仰ったそうである。(右の写真の欄は管理人による付加)

第2バチカン公会議以降、聖体をひざまずいて口で受けることは公には勧められていませんが、過去の習慣などによる個人的な理由で、ひざまずいて口で受けたいと希望する信者の方もいます。聖体の秘跡の意味は、共同体の交わりと一致を表すものなので、本来なら他の信徒に合わせ、同じように立って手で受けるということが基本になると考えられます。

勝谷太治司教様(左)

着座式の時の写真。右は前任の地主司教様。勝谷司教様のこのお説教があった時、地主司教様は共同司式者としてその場におられた。

かてどらる: 聖木曜日 - 主の晩餐の夕べのミサ(2014年4月17日

これはブログ「かてどらる」さんが紹介している「司教様のお説教の一部」のそのまた一部、前半である。

勝谷司教様のこの御発言については、既に信徒ブログ「カトリック的。」さん(当サイトとは無関係)が取り上げている。
札幌司教がミサ説教で問題発言か(2014年6月10日

記事の文書的信頼性
(やや大ゲサだが)

「カトリック的。」さんは優しく希望的に書いておられる。「記事の執筆者が司教様の話を聞きまちがえた、あるいは筆が滑っただけと信じたいが」と。しかし私は、その可能性はないだろうと思う。

「かてどらる」さんは自己紹介欄で「カトリック北一条教会のブログです」と謳っているし、札幌北一条教会(司教座聖堂)の公式サイトによっても「北一条教会ブログ」としてリンクされているのだから、たとえ書いているのが一信徒さんだったとしても、北一条教会から委されて書いている、信任されて書いているということだろう。そんな時、人は司教様のお説教をペンとノートを持って聞き書き・走り書きはしないものではないだろうか。司教様のお言葉を正確に伝えるべく、司教様のお説教を録音し、後で一字一句を正確に書き起こすものではないだろうか。手軽なボイスレコーダーが普及している今、そうするのが圧倒的に普通ではないだろうか。(私なら確実にそうする)

だから私は、勝谷司教様はおそらく実際その通りにお口に出されたものだろうと、ほぼ確信する。(現代のカトリック聖職者が如何にも言いそうなことではあるし)

そして、いずれにせよ、一人の「司教」の言葉とされるその言葉が公衆の目に晒されているのは事実である。

「人間性の問題」と「認識の問題」は別である
「道徳性の問題」と「真実性の問題」は別である

上の言葉は前回の記事の表題である。私は前回の記事を、今回からの記事の「前置き」として置いた。

それらの二種類は別であるから「分けて」考えなければならないということを、多くの人は気にしない。従って、私が以下に書くことも、人々の目には「言い訳」に聞こえるかも知れない。しかし、ここはどうしても分かってもらわねばならない。これを分かることなしには、私たちは、大袈裟でなく、冗談でなく、一歩も進めない。

上では引用しなかった「司教様のお説教の一部」の後半では、司教様は「ひざまずいて口で受けたいと希望する信者」に再び触れながら、しかし「共同体の交わりと一致」という観点から「お互い許し合い受け入れていく」ということを仰っている。すなわち、司教様がそこで仰っていることは一つの「寛容」である。ならば、「ひざまずいて口で受けたいと希望する信者」は、司教様の寛容なお心に同じ寛容な心で応えて、人間的なお心に同じ人間的な心で応えて、司教様の他の御発言に何を感じても、黙っているべきだろうか? もしそうしないで何か批判めいたことを言えば、その者は人々から「司教様の御寛容に批判を以て返す奴」と、「とんだ恩知らず」のように、或いは「人非人」「人間としての心がどこか足りない人」のように思われるだろうか?

しかし私は、やはり言わせて頂こうと思う。何故なら、「信仰」また「教会」は、ただ「人間性」のためだけにあるのではなく、「認識」のためにもあるからだ。だから、もし司教様が「信仰の認識」に於いて小さくない問題をお持ちなら、「寛容」を示して下さった司教様には申し訳ないが、私はやはり言わせて頂こうと思う。

少し、呟かせて欲しい。

教会は今や、ほとんど「ヒューマンであるかどうか」「人間らしく、平和主義であり、優しく、寛容であるか」しか気にしなくなったかのようだ。

もちろん、私も、「そのようなことは少しも大事でない」と言うつもりはない。しかし、問題は、「ほとんどそれしか気にしなくなったかのようである」というところにある。

「認識」の面で紛糾しそうになると、意外と簡単にこう言う──「いろいろな考え方がある」。
教会は物事を突き詰めて考える精神的体力のようなものを失ってしまったようだ。「心安らかに」「仲よく」だけが大事かのようだ。

本 題

私は、非常に率直に言わせて頂けば、「勝谷司教様はこの短い中に、よくもこれほど “変な物言い” を集めなさったものだ」と思うのである。番号を振らせて頂く。

① 第2バチカン公会議以降、聖体をひざまずいて口で受けることは公には勧められていませんが、② 過去の習慣などによる個人的な理由で、ひざまずいて口で受けたいと希望する信者の方もいます。③ 聖体の秘跡の意味は、共同体の交わりと一致を表すものなので、本来なら他の信徒に合わせ、同じように立って手で受けるということが基本になると考えられます。

かてどらる: 聖木曜日 - 主の晩餐の夕べのミサ(2014年4月17日

これを「変」と思わなかったらしい「かてどらる」さんもおかしい。あの浜崎眞実神父の言葉参照を「変」と思わないらしく、それをいつまでも表示し続ける草薙教会のブログと同様に。

私が扱うのは、たったこの一段落である。だから、人は言うかも知れない、「たったこれだけの分量で、彼の何が分かる」と。そして、この一段落をキッカケに書かれた次回からの分量を見て驚くかも知れない。そして、その分量は当管理人が想像力の羽根を勝手なばかりに広く広げて書き綴った故のもの、と思うかも知れない。

しかし、「違う」と言わせて頂く。人は人の「言葉の端々」に、その人の傾向を明らかに読み取れたりするものである。勝谷司教様の場合、その「言葉の端々」からは、シンプルな、最も分かり易いシグナルが強く発せられている。
それらのシグナルは、上の「たった一つの段落」からも十二分に発せられているし、そしてまた、以前見た「司祭中心の教会から信徒中心の教会へ」という言葉も、最も分かり易いシグナルの一つである。

私は、上で番号を振った三つの箇所のうち、一番問題なのは ③ だと思う。ここに全ての「根」があると思う。
しかし、一応、順番通り、① から見て行く。

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