2015.09.10

勝谷司教様 Part 2

① 

公には勧められていません」

① 第2バチカン公会議以降、聖体をひざまずいて口で受けることは公には勧められていませんが、過去の習慣などによる個人的な理由で、ひざまずいて口で受けたいと希望する信者の方もいます。聖体の秘跡の意味は、共同体の交わりと一致を表すものなので、本来なら他の信徒に合わせ、同じように立って手で受けるということが基本になると考えられます。

かてどらる: 聖木曜日 - 主の晩餐の夕べのミサ(2014年4月17日

結論(初めに結論)

司教様のこの仰り方は、「今や信者が聖体を立って手で受けることは、教会全体、教会の全てに於いて公的・公式な方法なのです、全世界的に共通のものなのです」という意味を会衆の耳と心に向かって投げるものであるから、不適切である。
(ひょっとして、そのような意味を投げたかったのですか?)

最初に言っておけば、私がこれから述べようとするのは「聖体を立って手で受けること」と「聖体をひざまずいて口で受けること」の間の「賛成」「反対」の議論なのではない。それ以前の事である。

人は簡単に「賛成」と「反対」を言う。しかし「賛成」と「反対」を言うために、その前に、そこに「おかしな事実認識」があったならば、また「おかしな言語感覚」があったならば、私たちは正常な議論を期待できるだろうか?

また、たとえ “善意” からではあっても、そして偉い人たちがいつも言う「結果的に」ということであっても、そこに些かの「不公平」や「歪曲」や「物事を伏せる動き」があったならば、私たちは正常な議論を期待できるだろうか?

だから、私のこの先の議論も、人の目に、私が私としての「賛成」と「反対」を言っているように映ることがあるかも知れないが、私としてはそれ以前に「認識」のために捧げるつもりのものである。(「捧げる」は大袈裟だが)

教皇様方

最近の教皇様方は「跪いた信者の舌に」御聖体を与えておられる。が、札幌の司教は「それは公には勧められていません」と言う。

動画

前教皇様 San Pietro Laterano
現教皇様 Sistine Chapel St. Anne Parish

フランシスコ教皇様

これは昨年2014年8月の訪韓時のフランシスコ教皇様のお姿である。ローマに於いてとは違い、教皇様は侍者たちを跪かせなかった。しかし、彼が御聖体を与えられたのは、侍者たちの口にだった。動画

日本カトリック司教協議会は2013年10月、フランシスコ教皇様に訪日を要望する書簡を送ったそうである参照。私自身は特にそれを望むものではないが、しかし、もしそれが実現の運びとなれば、教皇様は日本でも、御聖体を信者の手にはお与えにならないだろう。

教皇様方に於いては、ヨハネ・パウロ2世教皇様もベネディクト16世教皇様も、在位初期の僅かの例を除いて、信者の手の上に御聖体を与えなかったのである。フランシスコ教皇様は御自身どれだけ信念を持ってそうしておられるのかは分からない。しかし彼は、前任教皇たちからのこの流れを敢えて容易には変えないだろう。

もしフランシスコ教皇様が訪日されて、御ミサで信者の口に御聖体を与えられても、勝谷司教様はやはり言うのだろうか、「それは公には勧められていません」と。

斯く言う私も、実は全くの「教皇万歳」の人間ではない。「教皇様方も時には信仰の事柄に於いてさえ間違い得る」と思っている参照。しかしそれでも、「教皇」はカトリック教会の中で決して小さくない存在だと認める。それ故、勝谷司教様のその言い方は、私の目に、心に、なんとも違和感漂う。

勝谷司教様は知りながら
そのような言い方をしているだろう

勝谷司教様が最近の教皇様方が「跪いた信者の舌に」御聖体を与えておられることを「知らない」ということは、ちょっと考えられない。

何故なら第一に、彼は前任の司教様からの司教職の引き継ぎに於いて、「跪き」を巡っての私の一件を聞いているだろうからである。
私が前任の司教様と面談させて頂いた場で、臨席した二人の神父様のうちのお一人のお口から「確かに(ベネディクト)教皇様は舌に与えているかも知れないけれど」という言葉が出たぐらいであって、その面談の場は最近のバチカンや教皇様の動向について多少の内容は持っていた。そしてまた、私は『指針 あがないの秘跡』や典礼秘跡省がアメリカの司教に答えた書簡を提出しつつ、その求めを行なった。その面談の場で、それらの資料についても言及されたのである。そうであるのに、前任の司教様が司教職の引き継ぎに於いて、それらの事どもを後任の司教様に伝えないなどということは、ちょっと考えられない。(自分の後輩の司教の司牧職に関わることなのだから)

そして第二に、彼はそれなりにインターネットの世界を覗き、また更に、もう少し積極的に「使い」さえする人だからである。
彼は札幌北26条教会の司祭だった頃、札幌司教区の情報サイト「カトリック札幌司教区」を管理していたらしい。そして、一般的には司祭は「司教」になってまで教区のサイトを自ら管理するとは思われないが、見れば、そのサイトには今も「ホームページ担当者」のメールアドレスとして彼のアドレスが貼られている。更新は頻繁ではないだろうから、ひょっとしたら今も、その管理を気軽に(気さくに)引き受けておられるのかも知れない。
それからまた、彼はかなり昔から、愛車ハーレーダビッドソンの写真を多数載せた、ご自分の個人的なホームページを持っているFr.勝谷のキャンピングサイトへようこそ。このような個人的なサイトを今も必要に応じてイジルことが不可能でないなら、やはり、更新は稀であるだろう札幌司教区のサイトを管理することも、彼にとってそう難しいことではないだろう。
言いたいのはこうである。そのようにインターネットにかなり親しんでいる人が、「保守的」という噂が高かった一人の枢機卿が教皇になり、そして2008年半ばに御自身の御ミサに於いて一つの目立つ変化を作ったこと参照をこれまで少しも感知しなかったとは、これまたちょっと考えられない。

以上の点から、私は、勝谷司教様は最近の教皇様方の上のような御動向をちゃんと知っていながら、それでも「それは公には勧められていません」と、会衆に向けて、自覚的・確信的に言ったのだと推察する。

「公に」

これは日本語で、「おおやけに」と読む

第2バチカン公会議以降、聖体をひざまずいて口で受けることは公には勧められていません

悩ましいのは、ここに「公に」という言葉があることである。
(それは英語で言えば ‘officially’? それとも ‘publicly’?)

もしこれが「公には」ではなく「一般的には(generally)」という言葉だったら、私としても受け容れ可能であった。何故なら、その言葉「一般的」は「或るものが広く行き渡っている」という「状態」を指す言葉であり、そして現在の世界の教会の大多数は、実際、「聖体をひざまずいて口で受けること」を勧めておらず、「聖体を立って手で受けること」を勧めているからである。

しかし「公に」という言葉は、通常の日本語感覚を持つ者にとっては「一般的に」という言葉と同じではない。

ところがである、神から賢慮を頂いている筈の我がカトリック教会にも、その「通常の日本語感覚」を持たない日本人というのが居るようなのである。「カトリック的。」さんの読者コメント欄にその一例がある。そのコメント氏はこう主張して憚らないのである。「勝谷司教様はその『公には』という言葉を『一般的には』という意味で仰ったのです」

正確に引用しておけば、次のようになる。

「公には」というのは、正式という意味ではありません。
「公」とは世間一般のことです。
日本はもちろんのこと、ヨーロッパやローマですら手での拝領が一般的になっています。

コメント欄

「日本はもちろんのこと、ヨーロッパやローマですら手での拝領が一般的になっています」というところは、もちろん間違っていない。このコメント氏は──と云うよりおそらくコメント女史──私がここで問題にしようとするポイントを理解するだろうか?

もしそのコメント氏の言う通りなら、それはそれで相当の問題である。一体全体、日本語を話すどのような日本人が、「一般的に」という意味を言うのに「公に」という言葉を選ぶと云うのか。勝谷司教様がそうだと云うのか。
もしそのような「日本人」が居るとすれば、それは「通常の日本語感覚を有しない日本人」である。

こんなことは説明したくないが、必要なら説明する。
「公」という言葉は何らかの「権威」と関係した言葉なのである。そして、その対義語を、私たちは司教様の言葉の中に見つけることができる。それは、「個人的」(=私的)である。

だから、勝谷司教様は、そのコメント氏が持っているような言語感覚は持っておらず、ただ「公的」と「私的」という対照の下に仰ったことだろう。

勝谷司教様の御「言語行為」の問題は別のところにある。

漠たる言い方

公権威の「範囲」についての言及がないこと

司教様のその御「言語行為」の問題点は、「公」という公権威と結びついた言葉を使っていながら、その「公権威の範囲」については一切言及がないことである。「公権威の範囲」とは、所謂「管轄区」、或いは多少漠然としていても「地域」のことである。もしそのような「範囲指定」と共に言われていたなら、おそらく問題はなかっただろう。それは例えば次のような言い方である。

「第2バチカン公会議以降、聖体をひざまずいて口で受けることは、当司教区では、公には勧められていません」

「第2バチカン公会議以降、聖体をひざまずいて口で受けることは、日本の教会では、公には勧められていません」

「第2バチカン公会議以降、聖体をひざまずいて口で受けることは、世界の大多数の教会では、公には勧められていません」

これらの言い方なら問題ない。何故なら、それらの「管轄区」や「地域」では、過去の或る時点で「聖体を信者の手に授けること」の許可注1をバチカンに正式に求め、そして正式に許可され、その事を自分の領域で公式発表し、以降「聖体を信者の手に授けること」を自分の領域に於ける公的規準としたからである。これら全ての動きが「公的・公式」のものと言えるから、上のすべての言い方が問題ないと言える。(しかし同時に、これはかなり「上っ面」のことである。私たちは起こった生々しい現実も忘れるべきでない。各国は『メモリアーレ・ドミニ』の文言を踏み倒して進んだ

しかし、勝谷司教様のお言葉にはそのような「範囲指定」がない。

第2バチカン公会議以降、聖体をひざまずいて口で受けることは公には勧められていません

だから、これは非常に「漠たる」言い方である。

今まで第二バチカン公会議文書の中にさんざ見て来たように、人の “物言い” に於けるこの「漠然」「曖昧」というものは、常に基本的に良くない。

少しクドくなるが、同じ事を別の視点から見てみよう。

勝谷司教様の御発言が「漠たるもの」であるということは、文を能動態に直してみればなおよく分かる。

先ず、上に「例」として並べた文たちだが、それらを次のように能動態に直すことが “可能” である。

「第2バチカン公会議以降、聖体をひざまずいて口で受けることを、当司教区は、公には勧めていません」

「第2バチカン公会議以降、聖体をひざまずいて口で受けることを、日本の教会は、公には勧めていません」

「第2バチカン公会議以降、聖体をひざまずいて口で受けることを、世界の大多数の教会は、公には勧めていません」

上で “可能” と言ったのは、これらが文法的には正しい言い直しではないからである。文法的に正しい言い直しをするなら、受動態に於ける「当司教区では」は能動態でも「当司教区では」である。しかし、上を見て分かるように、「管轄区」や「地域」を〈主語〉にすることが “可能” である。そのように直しても、意味には変わりがないし、かえって分かり易い。
何が「分かり易い」かと云うと、「勧めていない」という行為の〈主体〉がである。

ところが、勝谷司教様のお言葉を能動態に直してみても──

「第2バチカン公会議以降、聖体をひざまずいて口で受けることを、[???]は、公には勧めていません」

──〈行為の主体〉がない。表われない。

オランダ新カテキズム」の著者は「聖体におけるイエスの臨在はいつ終わるかという問題は “小さな問題” “ささいなこと” 」と言ったけれども、一般にカトリック信者にとって「御聖体」に関わる問題はどれも重要な筈である。御聖体拝領の「方法」に関してもである。然るに、その重要な事を語るに於いて、「勧める」「勧めない」という行為の〈主体〉をはっきりさせないという勝谷司教様の御「言語行為」である。

多くの人は、以上のような私の検討を「かなり細かい」もののように思うかも知れない。しかし私は「小うるさい国語教師」なのではない。ハナから「学者タイプ」ではない。また、ここに於いて「言葉尻を捉えて」いるのでもない。司教様の言葉が「書き言葉」ではなく「話し言葉」であることを忘れているのでもない。

私が気にしているのは「実際的」なことである。そのような司教様の「漠たる言い方」が素朴な会衆の心に与える影響──いわば「言語効果」のことである。

私としての結論を、かなり大袈裟だが、以下の問答形式のうちに置く。

結 論

司教様の「漠たる言い方」は故意か不故意か
一つの「言語効果」を持つ

問   

このような場合、これを聞く素朴な会衆の心にどのようなことが起こるか。

   このような漠たる言い方、主語のない、行為の主体がはっきり言い表わされていない言葉を聞いた時、素朴な会衆は主語として漠然と「教会は」程度のことを思うのである、思うしかないのである。いわば自分の頭の中で主語を「補完」して聞くのである。そしてその時、その漠然と思われた「教会」とは、教会の「全体」「全て」ということになる筈である。司教様のお言葉はその時、「今や信者が聖体を立って手で受けることは、教会全体、教会の全てに於いて公的・公式な方法なのです。全世界的に共通のものなのです」という意味を持つのである。そのような意味を会衆の耳と心に向けて何気なく投げるのである。

そうして、そのような「言葉のイメージ」は、そこに「第2バチカン公会議」の名があることによっても強められている。即ち、この文は「第2バチカン公会議以降」と始まっているので、読む者・聞く者の目を一気に「世界大」にまで持って行く。第2バチカン公会議は「世界大」の出来事だったからである。その意味では、実は「範囲指定」はあったのかも知れない。「世界大」という!

以上が、勝谷司教様の「漠たる言い方」が会衆に対して持つところの、いわば「言語効果」である。私は、勝谷司教様がこのような「言語行為」を故意にしているのかどうか知らない。しかし、たとえ故意でなくても、結果として、司教様のお言葉は以上のような言語効果を持つ。

しかし「故意にしているのかどうか知らない」と言う私は、要するに疑ってはいるのである。今まで多少見て来たので、彼らの傾向が分かる気がするからである。

彼らは「善」に生きているのである。
で、「日本の教会の中に混乱を作ってはいけない」という「善」が彼らにとって殆ど「最上位の善」であれば、彼らはそのために多少物事を「曖昧」にしても、「伏せがち」にしても、良心の疼痛を感じないだろう。上のような “物言い” をしても、良心の疼痛を感じないだろう。「自分は善を為している」という自信を保持し続けるだろう。

失礼ながら、頭は少々良くても性情の単純な人の「善」、視野狭窄者が信じこむ「善」ほど怖いものはない。(ひどい言い方だけど、事実)

管理人注

[注1] これについては「承認」「認証」ではなく「許可」だったようである。当時の日本司教団と聖座の両方の言葉遣いを見て欲しい。→ 参照

また、『総則』でもそうなっている。

161[=117, 118] パンだけの拝領であれば、司祭はパンを取り上げて一人ひとりに示し、「キリストのからだ」と言う。拝領者は「アーメン」と答え、口で、あるいは許可されている場合は手で秘跡を受ける。拝領者はパンを受けるとすぐにすべてを拝領する。

ローマ・ミサ典礼書の総則(暫定版、PDF) |  中央協議会

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