2015.09.10

勝谷司教様 Part 6

③ 

「聖体の秘跡の意味は、共同体の交わりと一致を表すもの」

第2バチカン公会議以降、聖体をひざまずいて口で受けることは公には勧められていませんが、過去の習慣などによる個人的な理由で、ひざまずいて口で受けたいと希望する信者の方もいます。③ 聖体の秘跡の意味は、共同体の交わりと一致を表すものなので、本来なら他の信徒に合わせ、同じように立って手で受けるということが基本になると考えられます。

かてどらる: 聖木曜日 - 主の晩餐の夕べのミサ(2014年4月17日

結論(初めに結論)

如何にその時の「文脈」がどうあれ、「前後関係」がどうあれ、また「主題(テーマ)」がどうあれ、「聖体の秘跡の意味」と言ったその後に「天主様との一致」と続けずに(それを何処かに置き忘れたかのようになって)、じかに「共同体の交わりと一致」と “つなげて” しまえる人は、その信仰が疑われる。

私はこの事を、以前、このイラストで示した。

こんな神の配管工

しかし、私が上のように言うと、おそらく十人のうち九人までのカトリック信者が次のように言うのではないか。

しかし、司教様は御聖体の秘跡の意味は「天主様との一致」にあるという事を否定なさったわけではないでしょう。ただ、御聖体の秘跡は「共同体の交わりと一致」という事とも大いに関わりがある、いわゆるそのような側面もあるという意味で仰ったのでしょう。それから又、その時は特に「ひざまずいて口で受けたいと希望する信者の方」のことが御念頭にありましたから、そのような仰り方になったのでしょう。つまり、いわゆる “文脈” とか “前後関係” とか云ったものを、あなたももう少しご覧になるべきなのでは。

しかし、違うのである。後で説明する。

以下、引用文以外では、「あらわす」は「表わす」と表記する。
「表す」は「ひょうす」と読まれることもできるので。

日常的な言語感覚

聖体の秘跡の意味は、共同体の交わりと一致を表すものなので、

勝谷司教様のこの言い方に、私はちょっと「日常レベルの言語感覚の危うさ」さえ感じる。

「表わす」と言う場合、次のような言い方なら分かる。

聖体拝領の際の信者たちの身体動作の一致は、共同体の交わりと一致を表わすものなので、

「外的なもの」が「内的なもの」を〈表わす〉のである。

『総則』もこう言っている。

42(…)すべての参加者が共通の姿勢を守ることは、典礼のために集まったキリスト者共同体の成員の一致のしるしである。

『ローマ・ミサ典礼書の総則』 PDF

もう一度言う。「外的なもの」が「内的なもの」を〈表わす〉のである。「内的なもの」は視認できないから「外的なもの」によって〈表わされる〉必要があるのである。

私は『総則』が言っている事、内容には賛成していない。今は「言語感覚」のことを話している。内容ではなく。
内容のことを言うなら、『総則』がその言い方で打ち出しているのは、第一に、《幼稚園児にあてがう服のような善》《浅薄な善》《取って付けたような善》《善と云えば善だが、そう大したことない善》《底の浅い善》である(多くの人がここが分からないようであるのが不思議)。そうして第二に、物事を少し探れば、それは結局《まやかしの善》《善の悪用》であることが感知される。

参照

しかしそれでも、上に見た『総則』の文は、言語表現的には異常がない。
しかし、そこへ行くと司教様の言語表現は変である。

聖体の秘跡の意味は、共同体の交わりと一致を表すものなので、

まるで「内的なもの」が「内的なもの」を〈表わして〉いるかのようである。「意味」が「意味」を〈表わして〉いるかのようである。失礼だけど、何だかちょっと「覚束ない」感じがする。話し言葉であることを勘定に入れても、ちょっと心配になる言語感覚である。(つぶやけば、こんなことでどうやってフリーメイソンの作文に対抗できる? それに乗せられずに済む?)

さて、冒頭で「後で説明する」と言っておいた事を説明する。

信仰的な言語感覚

しかし、ここに於いて「言語感覚」の問題は
「信仰の認識」の問題そのものである。

聖体の秘跡の意味は、共同体の交わりと一致を表すものなので、

勝谷司教様はこのように、「○○の意味は…」という言い方をしている。ところで、人はそのような言い方をする時、そのものの「本質」を言おうとするのである。そのものが持っている「派生的な側面」などではなく。そのものの謂わば「ど真ん中」について言おうとするのである。(ただし、通常の日本語感覚を持つ者に於いては、であるが)

あまり巧くない例かも知れないが、一応言ってみよう。
例えば、水道の「意味」は何だろう?

辞書は引かずにおくが、それは例えば「いちいち川や井戸まで汲みに行かなくてもいいように、住居各戸まで水を送る設備」とでも言い得るだろう。ところで、こう考えてみよう。或る発展途上国の政治家が日本を視察にやって来て、日本では全国津々浦々にまで水道設備が整っているのを見て大変感心したと。で、それを知った日本の役人が誇らしげにこう言ったと──「はい、水道の『意味』は、そのように日本の国力を諸外国に示すことです」。しかし、これはおかしな言い方である。確かに、日本の水道の普及率が発展途上国の人々を驚かすことはあったとしても、だからと言って、水道の「意味」がそこにあるわけではない。水道の「意味」は、ただ上に言ったようなことだから。だから、その言い方というのは、水道というものの「意味」「目的」「本質」を外した言い方だと言わざるを得ない。

あまり巧い例ではなかったかも知れないが、しかしそれと似て、もし人が「聖体の秘跡の意味は」と口にしたなら、その次には「聖体の秘跡」の本質について言わなければならないのであって、すぐに派生的な部分のことを言うのは変である。言葉を換えて言えば、「どうかしている」のである。

「派生的」と言ったが、それは「共同体の交わりと一致」は「天主様との一致」から生じた〈実り〉として考えられるからである。これは私の個人的な見解などではない。この辺の描き方をジョン・ハードン神父様の『カトリック小事典』の中に見てみよう。ポイントを絞るために部分引用する。下線は管理人による付加。

pp.179-180

聖体拝領(せいたいはいりょう)Holy Communion

聖体は霊魂と神との一致を保ち、とくに超自然の愛徳の実践においてその人をいっそう聖にすることによって神との一致を促進する秘跡である。(…)

聖体拝領者と聖体の中のキリストとの一致道徳面で効力を発する(…)

聖体拝領の特別の目的は拝領者をキリストに似た者にすることである。(…)

聖体の秘跡の主要目的は霊魂とキリストの特別な一致である。この一致が特別なのは、聖体は並はずれて強力に助力の恩恵を授けるため、人は神と隣人への愛の行為を行うよう促されるからである。そのうえ、助力の恩恵はたとえ困難な状況下においても常時キリストのために生きるように勇気づけ、気に入らない相手をも愛し、生来の大きな相違があっても共同体を愛し続ける心構えをもたせる

注)全体は以前のページで示した。

このように、「聖体の秘跡」と結ばれているのは、まず何を措いても「神との一致」なのである。そうして、私が水色の下線を引いた部分が、そこからもたらされた〈実り〉である。このように描かれるものが、古来から、或いは従来から、「聖体の秘跡」であった。

しかし、勝谷司教様の言い方に於いては、「聖体の秘跡の意味」を「共同体の交わりと一致」と “直結” しているのみならず、「聖体の秘跡」は「共同体の交わりと一致」を「もたらす」でも「促す」でもなく「表わす」と言うのである。彼のこの口振りは、彼の「聖体理解」或いは「秘跡観」が、国井神父様[クー]神父様のそれと似て、「表現」の側面が強いものであることを示している。

イラストを差し挟ませて頂く。

問題の急所は何か?
再びこれである──「関連付け」の仕方

何と何を「つなげる」のか?

どのように 「つなげる」 のか?

現代の司祭方はここを狂わされている。

勝谷司教様がやっておられるのは
「乱暴な短絡」である。

勝谷司教様がそのお説教をなさった御ミサでの福音朗読は、主が御弟子たちの足を洗い給うた、いわゆる「洗足」の箇所であった(聖ヨハネ 13:1-15)。主のその御行為の意味は、私には簡単ではないけれども、一応、平均的には、「互いに謙遜にし合い奉仕し合う精神を教えられた」と見ることができるだろう。そして主は、それと同じ場所で「御聖体」を制定され、それを御弟子たちに与えられただろう。そしてその時、あの「一つであるように」のお祈りもなさっただろう。だから、勝谷司教様は「御聖体の秘跡」と「共同体の交わりと一致」を「つなげる」のである。無論、その二つが無縁であるはずもない。私はそれを認める。

しかしそれでも、人は「聖体の秘跡の意味は?」と問われたなら、先ずは「それは〈天主様との一致〉です」と答えなければならない。圧倒的にそう答えなければならない。しかるのちに、そこから来た恵みの地上に於ける “実り” としての「共同体の交わりと一致」を描かなければならない。何故ならば、「御聖体拝領」は単なる「意味の表示」ではなく、「方向指示」でもなく、それ自体、実際的・現実的な「天国の恵み」、宇宙的に偉大な「超自然的な恵み」だからである。注1

そうではないか?

御ミサには各部がある。しかし、その全体の中でも御聖体拝領は〈特別〉のものではなかったか?〈突出〉したものではなかったか? 教会は古来からそのように教えていたのではなかったか?注2

それなのに、あなたは “均す” のか?

参照

それは例えばこうである。
御ミサの中で〈共同体の交わりと一致〉を〈表わして〉いる最たるものは、もしかしたら「平和の挨拶 Sign of Peace 」ではないか?

ミサの「平和の挨拶」
ミサの「平和の挨拶」
ミサの「平和の挨拶」

この挨拶の表わし方は、それぞれの国民性・民族性によって多少違っている。しかし、ここではそれは問題ではない。ここで見るべきは、この「平和の挨拶」に於いて人々は、最も直接的に、まさに文字通りに、〈共同体の交わりと一致〉を求め、確認し、そして〈表わして〉いるということである。
〈共同体の交わりと一致〉の〈表わし〉のために、これほどストレートで “力強く” さえあるものは他にないぐらいのものである。

私は今、御ミサの中でこの「平和の挨拶」なるものが行なわれることの良し悪しを言っていない。飽くまで「表現」の問題として言っている。〈共同体の交わりと一致〉の「表現」のためには、「平和の挨拶」は殆ど最強である。御聖体拝領はそれに負けている。

だから、「御聖体の秘跡」について言う時にこのような言い方でいいのか、という話である。

聖体の秘跡の意味は、共同体の交わりと一致を表すものなので、

主語だけを入れ換えてみよう。

平和の挨拶の意味は、共同体の交わりと一致を表すものなので、

まったく馬鹿馬鹿しいほどピタリと嵌る。何の問題もなく〈交換可能〉である。

だから、そんなことでどんな〈差別化〉が図れると云うのか、ということである。勝谷司教様にとっては「 “御聖体拝領” も “平和の挨拶” も、表現の形態こそ違えど、その意味と目的は同じ、その向かうところは同じ」ということなのか。それでいいのか。私たちの「信仰」の世界は、何かそんなふうに「おおらか」に、「大雑把」に、「簡単」に構成されていいのか──という話である。

人は、私がひどく神経質に「ちょっとした言葉」にこだわっていると思うかも知れない。十人のうち八人までがそう思うかも知れない。しかし、これは単に “言葉の表面” の問題なのではない。確かに、彼はこの言葉を「何気ない」気持ちで言ったのかも知れない。しかし、たとえ「何気なく」あろうとも、彼の口からこのような言葉が出たというのにはそれなりの理由が、源[みなもと]があるのである。それは彼の「信仰観」である。

以下は繰り言。

御聖体拝領は宗教的なプラカードか

非常に率直に言わせてもらえば、これはまったく「貧弱な言葉」と言う以外にない。

たとえどんな〈側面〉との関連で述べていたにせよ、宇宙的に偉大な「御聖体の秘跡」について述べる司教様のこの言葉の、なんとペソペソと平板で、何の奥行きも感じさせないものであることか。

「表わす」、それは英語で言えば express?  represent?  それとも symbolize?  それとも make a sign(しるしを示す)
とにかく、司教様にとって「御聖体の秘跡」とは、詰まるところそのようなものだということか? ならば、司教様にとって「御聖体の秘跡」とは、極論すれば、上のプラカードのようなものだということにならないか。何故なら、このプラカードだって、「人々がキリストの十字架の周りに集まって一致している様」を立派に “表わして” いるからである(一番分かり易いではないか)。もし人々がこれを見て、キリストの御事をしっかり《アナムネーシス》注3するなら、このプラカードだって立派なもんだということになる。現代の秘跡神学(?)にとって「御聖体の秘跡」とはそのようなものなのか? 人々が「心に刻んで忘るべきでないこと」を毎度立派に《想起》するための “キッカケ” であるというようなものなのか?

私は、神父様方には大反省して頂かねばならないと思う。「反省」と言っても「人間性」に関することではない。「道徳的」なことを言っていない。「人間性」や「道徳」に関しては、私もまったくもって他者[ひと]のことは言えない。しかし、言っているのは「認識」に関してである。それに於いて、神父様方はおかしい。

以上をもって、今回の一連の記事を終わる。

管理人注

[注1] 「それ自体」ということに関して。

御聖体は、私たちの科学では捉えられないとしても、一応「もの的」に「それ自体が尊い」と言われねばならない。ジョン・ハードン神父様の『カトリック小事典』もそう言っている。参照

しかし、現代の神学者はそれに同意しない。彼らは「それ自体ということでは尊いとも尊くないとも言えない。すべては信仰のあるなしが前提となる」と言うのである。例: 国井神父

一見正しそうに見える。しかし、こう考えてみよう。
私たちの薬屋さんが出してくれる薬だって、その効能の発現のためには一定の「条件」を必要とする。「食後30分以内に服用」という「条件」が出されているのに食事と一緒に摂れば、あまり効果は見込まれないかも知れないし、またそもそもそれが薬ということを分からずに飲んだら、飲んだ人自身、体に何らかの変化が現われても、何のことか分からないということになるだろう。しかしそれでも、そのことで「薬」が「薬」でなくなったわけではない。

あまり巧い例ではなかったかも知れないが、しかしそれと似て、「御聖体」についても、それを拝領する時の「条件」の問題と御聖体「それ自体」という事を、その別を、頭脳を持った私たちは考えることが出来ていい筈である。

しかるに、そこを簡単に「それは条件次第」と言って澄ましているのが現代の神学者たちである。彼らは、もしここにイエズス様が誰の目にも見える形でお現われになっても、「彼が天主であることを知らぬ人々にとっては、彼はただの人です」と言うであろう。それはもちろんそうなのだが、それはあまりに「当り前」のことであって、語るに値しないのである。

この本来「語るに値しないもの」を大層なものと錯覚して振り回す頭のいい(?)神学者たちによって、私たちの教会から「それ自体として尊いもの」は消え失せるのである。(戻る

[注2] もっとも、現代の多くの神父様方に言わせると、「それがイケナカッタ。そのような “過度の強調” がイケナカッタ」ということになるようなのである。彼らは「そのような “過度の強調” によって、カトリック信者は『拝む』ことだけで満足してしまった」と言うのである。

しかし、もしそのような傾向が昔のカトリック信者たちの生活の中に実際にあったのだとしても、必要なのは、『礼拝すること』の上に何かを “付け加える” ことであった筈である。精神的指導なり精神的自覚なりを。

ところが、起こったのは、「拝んでいるだけでは駄目だ」がいつしか「礼拝することは左程必要なし」であるかのような感じになってしまったことである。言葉で何と言おうと、事実上、そのような流れになった。御聖体は「礼拝すべし」の対象から「礼拝したければして構わない」という程度の対象になった。そして、必然的に、司牧者たちの口から「聖体訪問」という言葉が消えた。

そして、誰もこのプロセスを反省しない。
典礼学者はと云えば、ニコニコして、自分の先輩改革者たちの業績を誉め称えている。参照 (戻る

[注3] アナムネーシス: “専門家” たちが深遠そうにその口から出す用語。参照 (戻る

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