2015.10.05

彼らの理由 1

以前のページで集めた「彼らの理由」についてまだ十分に書いていないと感じています。実は、あまり気が乗らないのです。何故なら、彼らの挙げている「理由」は、私に反論する気すら失わせるような種類のものだからです。しかしそれでも、彼らの挙げる「理由」の一々に、やはり誰かが一度きちんと反論しておいた方がいいではないかという気もします。その役を買って出るほど自分を買っているわけではないけれど、書いてみようかな。あまり長々ぐちゃぐちゃと書きたくはないがな。なんとかシンプルに書けないかな。

「跪きの類は日本人にとっては無意味」?

1962年 長江恵[さとし]司教

ひざまずきの類いの要素は西洋文化に由来していては日本人にとっては意味がない(meaningless)

彼らの理由(資料

もし長江司教様が本当にこのような言い方をしたのだとすれば(前提)、これは “凶悪な誇張” と言わねばなりません。

何故なら、右のような所作を自らの文化の中に持っている日本人には、「跪く」という “身を低くする姿勢” は何らかの “謙り” の表現なのだろうということは容易に想像つくからです。

まして、それが明らかに宗教的な雰囲気の場所に於けるものなら尚更です。いったい誰が、どのような日本人が、キリスト教会の中で跪いている人を見て、「それが何を意味しているか分からない」と言うでしょうか。(60年代に於いても)

同じ文章から。

典礼儀式において器物に接吻することは日本人には理解できない(unintelligible)ことである。

彼らの理由(資料

これもそんなことはないでしょう、必ずしも。
接吻は人間に於いて広く愛情の表現です。長江司教様がこのように言ったらしいその時代に於いてさえ、日本人の中に、例えば恋人の写真に接吻する人はあったでしょう。だから、日本人の未信者がカトリックの司祭が祭壇や福音書に接吻しているのを見ても、それがどういう意味か「理解できない」ということはないでしょう。「一つの愛情の表現なのだな」ぐらいのことはすぐに思うでしょう。

結局、長江司教様が本当にこれらの言い方をしたのだとすれば、彼には “歪曲表現” 或いは “不自然な誇張” を使ってでも物事を変えたいという気持ちがあったということでしょう。

ところで、こう考えてみて下さい。そのような人が、他方、その同じ口を以って、「過去の教会」が為したとする「過度の強調」を指摘したと。例えば──「過去の教会は罪や神の厳しさを “過度に強調” していた。“全実体変化” などという概念もそれと無関係ではない」と指摘したと。そしてまた再びその同じ口を以ってこう言ったと──「跪きは日本人には “無意味” 。日本人にはそれが何なのかよく分からない」。

もしそのような人があったならば、その人は果たして、「何が “過度の強調” に当たるか」を見分けることに於ける「公平な目」というものを持っているでしょうか?

しかし、人間に於いては時々そのようなことが起こります。
自分の姿が見えていないというか、得手勝手というか。

もう少し視覚資料を追加しておきます。

フラ・アンジェリコ「Noli Me Tangere(ノリメ・タンゲレ、わたしに触れるな)」(1440-41年)

神父様方、あなた方は、自分が主に会った時、上の聖マグダラのマリアが取っている程度の姿勢は取るだろうと思わないのですか?

そして、次をご覧下さい。

映画「忠臣蔵」(1958年) 

GIFアニメ

日本映画の中のこの侍(俳優は鶴田浩二)は、上のフラ・アンジェリコ(イタリア人)の描く聖マグダラのマリアと「まったく同じ」と言っていい姿勢を取っているではありませんか。

映画「蜘蛛巣城」(1957年)
GIFアニメ

これらの古い日本映画を参照したからと云って、私がこれらに描かれている昔の日本の「社会体制」がいいと思っていると思わないで下さい。そんな事は思っていません。
私が言いたいのはただ、人間のこのような姿勢・動作の意味が現在の私たちに「分かるか分からないか」です。もちろん分かるのです、容易に。そして、意味の容易に分かるものを「無意味」などと言ってはいけない、ということです。

神父様方、私は今、普段真実思っているが口には出せないことを、伏せ字を使いながら言わせて頂きます。すなわち──この問題をいつも文化論的にばかり言っているあなた方は「馬○」なんじゃないですか。こういうのは基本的に「身を低くする」ことであって、大部分の民族に「共通」した、人類に於いて「普遍的」と言っていい、「文化」ではなく「生理」なのです。神によって謂わば「埋め込まれた」(全ての民族が “一つの神” によって創られました)「心身相関の感受性」「内なる自然」と言っていいものなのです。

知的、或いは知識豊富なつもりになっている人たちは、「諸文化」だの「当時の時代背景」だのを云々することがお得意なのですが、この人間の「生理」という、本来最も分かり易いことに関してはまったく口をつぐんでいるのです。(本当に利口なんですか?)

台湾の道教寺院(無音)

YouTube で見る

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

次へ
日記の目次へ
ページに直接に入った方はこちらをクリックして下さい→ フレームページのトップへ
inserted by FC2 system