2015.10.05

彼らの理由 2

「この問題の困難を大きくしている」

1970年 手による聖体拝領の許可申請書

日本司教協議会は、1970年5月の司教協議会総会で「聖体を手で受ける」可能性を検討し、6月2日付で典礼省にその許可を申請した。申請理由はラテン語で次のように書かれている。
「聖別されたホスチアを司祭が直接拝領者の口に置く方法は、日本人の慣習には他に類例のない親しみにくいもので、特に、このようなことに馴れていない成人してからの改宗者が少なくないことは、この問題の困難を大きくしている」。

彼らの理由(資料

小結論(初めに小結論)

それが「日本人の慣習には他に類例のないもの」であることは確かです。しかし、人間にはそれなりに理解力も順応力もあるのであって、自分たちの馴染みのある慣習にはないものであっても、説明されれば「なるほど、そういうことか」と納得し、案外すんなり受け入れることも多いものです。特に、人は、「宗教」という世界は多かれ少なかれ「特殊的」「非日常的」な世界である、ということを知っています。この申請書の筆者はそのようなことを勘案していないに違いありません。「困難を大きくしている」という言葉は疑われるべきです。やはり「目的のためのセリフ」というに近いでしょう。

私の例をお話ししましょう。たっぷり「成人」になってからカトリックに入信した私にとって、「今は廃[すた]れた跪いて舌で受ける御聖体拝領」のことを聞いた時も、何も問題となりませんでした。私はそれを写真で初めて見た時、もちろん「これは何だろう」と思いました。しかし、「それは何らかの “宗教的意味を含んだ宗教的所作” だろう」と、すぐに思ったのです。そして、「自分はまだその “意味” についてよく知らない」と自覚しました。“パッと見の印象” だけでは判断せず、わざわざ私たち日本人の「ちゃぶ台の前での所作」と引き比べて判断しようともしなったのです。そして、後でそれについての説明を読んだ時、「なるほど、そういうことか」と思ったのみで、結局、何も問題となりませんでした。

注)「ちゃぶ台」はあくまで比喩。私が受洗した2006年、「ちゃぶ台」は既に日本の一般的な家庭からは消えていました。

そういう反応をした私は余程考え深い人間だったのでしょうか? 私はそうは思いません。何故なら、既に言ったように、人は大抵「宗教は日常の世界とはちょっと違う」ということぐらい知っているものだからです。

例えば、その事をざっと見てみるならば──東京・浅草の浅草寺では人々は体に煙をかけますよね、ご利益を求めて。で、このような一つの「宗教的行動」に対する人々の態度にはおよそ次の三種があると思います。

① 

まともに信じてそうする。(信心家)

② 

ただ「そういうことになっているから」と、面白がって軽い気持ちでそうする。(観光客、平均的日本人)

③ 

「これは迷信だ」と笑う、或いは眉をひそめる。(他宗教信者、或いは、何らかの信念の持ち主)

確かに、人々の中、そのような違いがあるでしょう。
しかし、ここで見るべきポイントはこうです。

それら全ての人々の中で、いったい誰が、仏教のこの一つの「宗教的行動」を前にして、わざわざ、「これは私たちの『日常生活』の中にはないものだ」などと考えるだろうか?

私は考えでは、まず居ませんよ、そんな人は。圧倒的多数の人は「宗教は日常の世界とはちょっと別」という一種の “割り切り” の下にこれを見るのです。その宗教的行動を肯定する人と否定する人の別を問わずです。だって、何度も言いますが、すべての人が「これは宗教の世界の話だ」と知っているからです。誰も、「私たちは私たちの日常的慣習の中でこんなことはしない。だから、これは変だ」とは考えません。それが《人間の実際のところ》なのです。

だから──

「この問題の困難を大きくしている」?

ほんとですか?

ということになります。
「健全なる疑い」を持たねばなりません。

もう一度見ましょう。

「聖別されたホスチアを司祭が直接拝領者の口に置く方法は、日本人の慣習には他に類例のない親しみにくいもので、特に、このようなことに馴れていない成人してからの改宗者が少なくないことは、この問題の困難を大きくしている」

彼らの理由(資料

私にとってこの「この問題の困難を大きくしている」という宣言は “胡散臭い” ものです。真に《人間の実際のところ》に立脚した、それに対する実際的な観察から出て来たものではなくて、「改革」を望む者たちがその《目的》のためにペタッと貼った「セリフ」のように見えます。

人間は時々そのようなことをするのではありませんか?

「差し迫った脅威」(Imminent Threat)

注)イラストが図らずも「面白く」なってしまいましたが、実際は「面白くない」こと、深刻なことです。

アメリカの無人攻撃機による子供たちの犠牲 ・オバマの汚い戦争

アメリカの為政者たちは「差し迫った脅威」を理由にして世界のために「必要でもない必要」を作り、「人々のため」と称して実のところ自分たちへの利益誘導でしかない、世界と人類のために「最上でない」どころか実は「悪魔的」でしかない蛮行(殺人)を繰り返しているのではありませんか?(こう断言するために私たちはまだ慎重な検討を必要とするのですか? 国会でモジモジモゴモゴ言った偉い人たちのように? 参照1参照2

上は政治の世界の話です。しかし、或る意味、教会も「政治」と無縁でないのです。「統治」するわけですから。で、私は、冒頭の日本司教協議会の言葉も、同じ情景・構図の下に見たいと思います。

注)イラストが図らずも「面白く」なってしまいましたが、実際は「面白くない」こと、深刻なことです。

この世の或る種の者たちは、「物事を変える」という自分たちの《目的》のために、ありもしない問題を「ある」と言ったり、本当はそう大したこともない問題をことさらに「大変だ、重大だ、大いに懸念される」と言うのではありませんか?

私たちは「神父様」と聞けば「神父様」と思います。しかし、第二バチカン公会議後の “典礼の改革” に当たった神父様方については、「神父様」とお呼びするより「為政者」と、「身勝手な為政者」とお呼びする方が適切なのではありませんか?

彼らは実際には「カトリックへの改宗を考えて
いる日本の成人たち」に聴取していないだろう

再掲

「聖別されたホスチアを司祭が直接拝領者の口に置く方法は、日本人の慣習には他に類例のない親しみにくいもので、特に、このようなことに馴れていない成人してからの改宗者が少なくないことは、この問題の困難を大きくしている」

彼らの理由(資料

このように言う彼らは、では「カトリックへの改宗を考えている日本の成人たち」に聞いたのでしょうか。「ホスチアを拝領者の口に直接置く方法をどう思いますか?」と。(私自身はそれを聞くことが必要だとは思いませんが、彼らが上のように言う限り)

私は、彼らはそれを聞いていないと思います。何故ならば、日本司教協議会が上の申請書を出したのは1970年ですが、その三年後の1973年、京都の教区報が次のように証言しているからです。

日本司教団は、この例外を認める末文に重きをおいて、司祭や信徒の意見を求めずに日本の風土に合うという理由で、「聖体を手に授ける」許可を申請した。

彼らの理由(資料

私が言いたいのはこうです。
そのような重大な申請を行なうに際して司祭や信徒に聞かなかった人たちが、どうして「カトリックへの改宗を考えている日本の成人たち」には聞いた、その気持ちを聞いたと、私たちは考えることができるだろうか。

注)「聞きましたか?」という質問に対して「はい、聞きました」という簡単な答えは受け入れられません。何故なら、僅か二、三人に聞いたのでも「聞いた」ではあるからです。

つまり、「人の気持ちを大切にする」人たちは “偏った聞き方” はしないでしょう。Aという側の人たちの気持ちだけ聞いて、Bという側の人たちの気持ちは聞かない? 「改宗を考えている日本の成人たち」の気持ちだけ聞いて、司祭や信徒の気持ちは聞かない? そんなことはしないでしょう。彼らが「人の気持ちを大切にする」人たちならば、その両方の気持ちを聞いたことでしょう。「司祭や信徒の意見を求めずに」という教区報の証言があるということはすなわち、彼らは「人の気持ちを大切にする」人たちではなかったということを示しています。だから結局(私の人間理解からすれば)彼らは「改宗を考えている日本の成人たち」にも大して聞いていないことでしょう。彼らはただ自分たちが「独り決め」した事にそれらしい理由を付けて提出しただけでしょう。

彼らは未信者に対して “従来の教え” を
「説明」 することに熱心でなかったろう

そしてまた「聞き方」というのもあります。「改宗を考えている日本の成人」にこう訊いてみましょう、「御聖体は一種の “食べ物” であるわけですが、あなたは食べ物を “直接舌で受ける” というこの方法についてどう思いますか。違和感を感じます?」

そのように訊けば、それは、「まあ、それを “食べ物” と考えれば、“食事” と考えれば、確かにちょっと違和感を感じますね」ぐらいの答えが返ってくることはあるわけです。しかし、ここからが「司祭職」です。司祭はそのような疑問に対して「説明」しなければなりません、「教え」なければなりません。「ああ、なるほど。しかし実を言えば、それは単なる “食べ物” ではなくて “キリストの尊い御体” なのです。それは尊いものですから、その小片さえ失われる可能性を小さくしなければなりません。そうしてまた『司祭の聖別された手』ということもあります。これはいわゆる “差別” ということとは違います。一つの霊的秩序なのです」と。

そのように説明されれば、誰だって「これは宗教の話だ。私たちの日常とはちょっと違う」ということは知っていますから、案外容易に「なるほど、そういうものか」と納得することも多いものです。

しかし「改革」を望む人たちは、未信者や求道者たちにそのように説明することはしないでしょう(だいたい彼らは「全実体変化」や「司祭の聖別された手」と云った概念を「一つの強調的言い回しだ」ぐらいにしか思っていないわけですし)。彼らは不真面目で身勝手な処理をするでしょう。彼らは上のように「説明」することは放[ほか]して、省略して、おざなりにして、「彼らは違和感を感じている」というところだけを拾うでしょう。そうしてそこから「これは福音宣教のためにはマイナスだ。ここに “大きな困難” がある」と結ぶでしょう。

最初から「手による聖体拝領を導入するこ

とにする」という「結論」ありき の世界

つまり、当時のブニーニ大司教の居る礼部聖省や典礼省に於いてばかりでなく日本の司教協議会に於いても、手による聖体拝領の導入は「最初から結論ありき」の世界の中の目的だったのです。「ホスチアを拝領者の口に直接置く方法は日本の成人のカトリックへの入信・改宗にとって一つの大きな困難となっている」などという文言は単なる「理由付け」に過ぎません。いい加減なものです。

「いい加減」と言えば、この「手による聖体拝領の許可申請書」はそもそも『メモリアーレ・ドミニ』の「すでに導入された(普及した)場所においては」という限定の言葉を無視して提出されたものであることも思い出しておきましょう。参照

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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