2015.10.05

毎日の殺人とカトリック司祭たちの脳ミソ

「脳ミソ」などというドギツイ言葉を使うことをお許し下さい。
 何と云うか. . . 遠慮していたくないのです。

それにしても、
最近の日本は(世界もですが)、
毎日、毎日、殺人 ではありませんか?

神父様方、
『現代世界憲章』の言葉について
説明して下さい。

現代世界憲章

「(御子はその受肉によって)最初の罪以来ゆがめられていた神の似姿をアダムの子らに復旧した(22)だの、

「(御子の受肉それ自体によって)人間性はわれわれにおいても崇高な品位(divine dignity)にまで高められた(同)だの。

もしこれらの言葉が真実なら、時代の流れ、人類の歩みは、ほとんど良い方向にしか行かない筈です。しかし、現実はどうですか。
「今は人類はちょっと “寄り道” しているだけ」とでも言うのですか?(訊いていません。これらの写真を見て下さい)

神学の言葉というのは、単に人類の「希望の言葉」なのですか? 「信頼性」の問題はどうなりました?

カトリックの世界というのは、先ずは人類の未来について甘い言葉を吐き(むしろ受動態で「囁かれ」とすべきかも知れませんが)、次に時代の推移と共にそれが嘘だったと判明すると、それにもまた甘い言い訳をかぶせて物事を善意で曖昧にするという、そんな世界なのですか?

あなた方は今も信徒たちに「第二バチカン公会議に学ぶ」ことを勧め、促し、それを「読み解く」ことを教えておられるのですか?
しかし、少なくとも現代世界憲章の上の言葉は「カトリック司祭の精神を戦いに於いて “骨抜き” にするための世迷い言」という以外にどう「読み解く」ことができるのですか?

お勉強家さんたち。
「真面目」もそこまで来れば「盲目」ではありませんか?

イエズス様は「警戒せよ」とおっしゃいませんでしたか?

付記

「今は人類はちょっと “寄り道” しているだけ」とでも言うのですか?──と書いたわけですが、人間には、何か悪い徴候が現われると、それを希望的に解釈したくなる傾向があります。

典礼問題だってそうです。第二バチカン公会議後、典礼の大いなる乱用が世界のあちこちに見られた頃、それを「過渡期」という言葉で弁護した人があった筈です。「なにぶん、今は典礼改革の “過渡期” なので」と。

或いはまた、「 “公会議の精神” にはフリーメイソンが相当絡んでいるらしい」と気づいた人でさえ、結局はこういう言い方に落ち着いたりします──「悪は、神の大いなる展望、宇宙的な大計画に従属する。すなわち神は、やがてもたらし給う大いなる善のために、悪をも “利用” し給い、“使役” し給う」。

確かにそのように見ることが出来ると、私なども思うのですが、しかし問題は──その「神の大計画」の内には実は「人間各自が悪と戦う」ということも含まれているかも知れないのですが、つまり神はその「大計画」に於いて人間側のそのような努力をあくまで望んでおられ、それあってこその或る意味彼の「計画」かも知れないのですが、しかし上のように言う人はしばしば、あたかもそのようなことが目に入っていないかのように、自分がその戦いに積極参加することを求められていないかのように、上のような世界観をただ静的に叙述して済ましてしまっている、ということです。「悪」に関してそのような一見勝れた(?)説を展開しながら、自分では決して槍を持って立ち上がろうとしない、参戦しようとしない、ただ「解説」することに留まっている、ということです。「積極性」が〈神〉のようになった第二バチカン公会議後の世界に於いて、これは不思議な消極性です。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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