2015.11.04

ソットコルノラ神父 1

カトリック教会は「みんなのため」ではないかのような口振り

ソットコルノラ神父のことをもう少し観察させて頂こうと思います。はい、しつこいです。しかし、必要と思います。何故なら第一に、彼は今まで日本の典礼をいじって来た人の一人であり国井神父と同様)、今もそうであるからです市瀬神父と同様)

そして第二に、日本とか何とかいうのを越えてカトリック教会全体の問題として、私たちは彼を見ることで、現在のカトリック教会が罹っている極めて毒性の高い伝染病、「悪魔的」と言っていい伝染病のことに気づくチャンスを得るからです。

まずは第一のことから入ります。

2012年10月28日 於:大阪梅田教会
動画 00:03:10~

日本の全国の典礼委員会の委員としてもう27年目、もう終わりだと思います〔笑〕、27年目になっています。そして典礼委員会の中で、もう12年目になっていますね、小委員会。ミサ典礼書を取り上げて新しい出版を考えている小委員会の一人として務めています。

2014年2月16日 於: 福岡司教区・北九州地区
参照元 音声(講演)00:01:10~

日本の中央協議会の典礼委員会の委員として務めています。(…)そして、2000年から、典礼委員会の中でできた、ミサ典礼書、新しく、何とか、あのぅ、訳する、あのぅ、小委員会の委員としても務めています。ちょうど、来月、3月18日、もう決まっています。梅村司教様、典礼委員会の会長と. . . あのぅ、宮越さん、宮越さん、典礼委員会の事務局長、秘書で、三人でローマに行って、この小委員会の仕事の結果として、新しいミサ典礼書をローマ教皇庁典礼省に出すことになっています。そして、そこで見て頂いて、何かちょっと気がついたことがあれば、言われて、またやり直して、とにかくね、もう長くならないうちに、あの、出版することになると思います。うまく行けば、ま、来年。(…)なにか、大したことではないけど、ちょっと変わることがあるかも知れませんので、このミサ典礼書小委員会のメンバーは今、手引きを準備しています。

彼にとっては日本の信者が聖変化の時に跪かなくなる(全国統一的に)ことも「大したことはないちょっとした変更」なのでしょう。

さて、彼は、物腰は「柔和」「謙遜」そのものですが、実はしっかり「教える」口調を取る人です。悪く言えば「上から目線」。しかし、私はこれ自体必ずしも悪いこととは思いません参照。問題は一重に、彼が聴衆に与える導きが「正しいかどうか」です。彼の講話を幾つか見てみます。

2012年10月28日 於:大阪梅田教会
動画 00:03:52~

とにかく典礼はホントに私に神様から与えられた恵みとします。洗礼を受けたあの大きな恵みの次の大きな恵みは典礼を勉強することが出来たことと思います。神様に感謝しています。今日も、伊藤さんと典礼委員会の皆さんに、あの、ここで典礼について話すことが出来ますことを感謝しています、ありがとうございます。あの、楽しいことです、典礼は、神様との出会いのことです。それよりも大きな恵みはありません。それよりも大きな喜びはない筈ですよ。

信徒を対象とした講話に於いて、彼の話はいつもこのような神と人への「感謝」から始まります(2013年も、2014年も)。で、このような「感謝の人」を前にして、素朴なカトリック信者たちの内のいったい誰が、あえて警戒を覚えるでしょうか。

しかし、私は言いたいのです。
全実体変化を信じていない国井神父も、ソットコルノラ神父と同様に「神に感謝」していることでしょう。或いはまた、プロテスタントの典礼学者たちだって「神に感謝」していることでしょう。

カトリック教会は「みんなのため」ではないかのような口振り

2012年10月28日 於:大阪梅田教会
動画 00:00:50~

日本に来てもう35年目になります。最初の8年間はこの大阪教区で働かせて頂きまして、その時、安田大司教様の励ましを受けて、大司教様に相談に伺って、「宣教師として日本で『諸宗教対話』という活動をすればどうでしょうか」と〔伺ったところ〕、「あ、いいことですよ」と言われて、まず大阪でそれを実現しようと思ったんですけれども、あとで色々な理由で九州に移って、もう九州に行ってから27年目。そこで、熊本県玉名郡のちっちゃな村の中で「祈りの家」を創立しましたが、あの「祈りの家」はカトリックの信者・キリスト教の方々のためだけではなくて、みんなのため。

彼は「みんなのため」という言葉を強く言いました。その言い方は一般に、人々に「寛[ひろ]い心」を連想させるでしょう。

しかし、私は思います。
変だな~、変だな~、カトリックは初めから「みんなのため」、「すべての人のため」のものなんだけどな~。

カトリック信者の多くは、ソットコルノラ神父のこのような考え方を「理解できないことはない」と思うのでしょう( “保守的” な信者でさえ──例えば、次に紹介するような集いは諸宗教対話の本来の形かと思う」)。しかし私は、「諸宗教間対話」というものにそんなに物分かりよくしないで欲しい、よく考えて欲しい、と言いたいのです。

宗教に於いて布教・伝道が可能なためには人々の心というものを “流動的・可塑的” なものと見なければならないが、「諸宗教間対話」の精神は人々の心を “固定的” に見るので、カトリックの布教・伝道を、実質、停滞あるいは後退させる

ソットコルノラ神父のような司祭は、
「キリスト教会はキリスト教徒のためのもの」
「カトリック教会はカトリック信者のためのもの」
「仏教寺院は仏教徒のためのもの」
「ヒンズー教寺院はヒンズー教徒のためのもの」
「モスクはイスラム教徒のもの」と、
一種 “固定的” に見るようなのですが、
宗教の重大側面は “流動的” なものです。

つまり、

「ユダヤ教徒が或る日キリスト教徒になる」 例: 聖パウロ
「ヒンズー教徒が或る日カトリック教徒になる」 
「プロテスタント信者が或る日カトリック教徒になる」 
「フリーメイソン結社員が或る日カトリック教徒になる」 
「プチ宗教遍歴者が最終的にカトリックを見出す」σ(--#) 等、
こういう “流動的” なものが宗教の重大側面なのです。

もしソットコルノラ神父に訊けば、彼はそのような流動性を否定しないでしょう。「ヒンズー教徒が或る日イエス様を信じるようになる、カトリック教徒になる。もし強制されることなくそうなるなら、それは素晴らしいことです」ぐらいのことは言うでしょう。しかし他方、彼は確かに、そのような “流動性” に特には貢献したくないようです。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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