2015.11.04

ソットコルノラ神父 3

実際的必要性の疑わしいものに熱心な人(々)

カトリック信者に「神道の神主の所作を見て、その霊性を学んだらいい」と勧めたソットコルノラ神父は、昨年の或る日、「キリスト教と神道との対話」に出掛けました。写真*

* 写真、向かって一番左、ソットコルノラ神父のとなりには、オリエンス宗教研究所の所長、ムケンゲシャイ・マタタ神父が居ます。マタタではなくて「イタタ」だ。(暴言)

「必要でもない必要」の物語、始まり始まり。 

 は管理人。

キリスト教と神道が対話
「環境問題」「祈り」について2宗教が協調の道筋探る

2014年11月25日

日本聖公会聖アンデレ教会(東京都港区)で22日、神道国際学会主催によるセミナー「キリスト教と神道との対話」が行われた。

今回話し合われたテーマは、「環境問題と宗教」と「宗教における『祈り』の意味」の2つ。同学会の理事、副会長による問題提起が行われ、その後の対話ではまず神道側が、次にキリスト教側が講演。そして、コメンテーターがコメントし、最後に質疑応答という流れで行われた。

問題提起では、同学会理事のマイケル・パイ氏(独マールブルク大学名誉教授)が、「宗教は並存が望ましい。良い並存とは否定的なイメージを捨て、対話をして相手を知ることが必要」と言い、対話の重要性を語った。

「否定的なイメージ」とは何を意味するんでしょうかね。「悪感情」のことですか? それとも、「彼らは未だ天主を知らない」と “理性” で思っただけで、もう駄目なのですか?(まさかね)
そう、「まさか」ですよ。もしそのように理性で思うことも駄目というなら、布教・伝道の動きなど出て来る筈もないですからね。
「悪感情を持っている時には対話が必要」とは或る程度言えるかも知れません。例えば、「イスラムの」と言われるテロリストのせいで一般のイスラム教徒までが敵視されるような場合には。しかし、それ以外では特に必要ないのでは? 「信教の自由」という “対人間権力”( “対天主” ではなく)に於ける権利(市民権)が認められている国では。

茨城県の五所駒瀧神社宮司である櫻井崇氏は、自身が主催する自然教室「千年の森の会」の活動を紹介し、「神道は自然の中に神々を感じ、感謝し、『生かされている』ということを学ぶ。自然は優しさだけではなく荒々しさもある。支配ではなく共存ができる」と説明した。

そんなことキリスト者だって分かってるよ(たぶん)

対して、日本聖公会川口基督教会の岩城聰司祭は、「われわれは創世記の『地を支配せよ』という言葉が引き合いに出されて批判を受けるが、私たちの神が言う『支配』とは、王のように搾取することではない。サムエルという預言者も『国王制をやめた方がよい』と警告し、当時の人々に対して同じ問題提起をしている。ここで書かれているのは『王のような搾取的支配』ではなく、羊飼いが羊の世話をするようにケアをする、いわば『治める』ということ」と答弁し、この言葉が間違って解釈されてきたことを指摘した。

祈りの意味については、互いの “祈り” という言葉が持つ意味とその習慣を紹介した。神道代表として北澤八幡神社の矢島嗣久宮司は、「い」とは「忌み」と呼ばれるよくない物を清めることを表し、「のり」と呼ばれる神々の定めた掟を得ることが「いのり」と説明した。

いったいどんな「説明会」なんだ。
この会の目的は何なんだ。

一方、カトリック霊性交流センターのフランコ・ソットコルノラ神父は、「日本のクリスチャンの中でもこのように理解してもらうのは難しいと聞きますが、私たちは神様を『あなた』や『お父さん』というような親しみを込めて呼び、祈りとは私たちを愛してくれてる彼との対話です」と説明した。そして、互いに「祈りとは神と会話し、そこで得たものを実践すること」と類似点を見出した。

「相違点」と「類似点」を確認し合ったからと云って、それがどうだというのだ。

画像

パネルディスカッションでは、神道側、キリスト教側が双方の意見を主張。対話し、互いを知り、融和の道を探った。左から、ムケンゲシャイ・マタタ氏(オリエンス宗教研究所所長)、フランコ・ソットコルノラ氏(カトリック霊性交流センター神父)、矢島嗣久氏(北澤八幡神社宮司)、マイケル・パイ氏(独マールブルク大学名誉教授)=22日、日本聖公会聖アンデレ教会。

「融和の道を探った」?
神道とキリスト教は喧嘩でもしていたのか?

質疑応答の時間では、古事記などの日本神話に登場する最高神、天照大神(あまてらすおおみかみ)を愛しているか、という質問があり、矢島氏嗣久氏(北澤八幡神社宮司)は「恐れ多くて、『愛している』などと言うことはできない」と回答。「神と人」との精神的な距離感を感じた。一方、日本のクリスチャンの中にもこのような神との距離感を強く持っている人はおり、ソットコルノラ神父は「神様は人間にとってお父さん」という概念を根付かせるのに苦労すると語った。

このように「相手を知る」ことで何が起こるというのだ。どんな素晴らしいことが起こるというのだ。これは単なる、漠たる目的の「交流会」「懇話会」程度のものと言われるべきではないか。

同学会副会長のジョン・ブリーン氏(国際日本文化研究センター教授)が「永遠に対話の必要性がある」とセミナー中に触れたように、このような異なる宗教間の相互理解や建設的な試みが続いていくことを祈りたい。

「永遠に対話の必要性がある」? イノセントな善人たちはこの「善の妄語」に永遠に目を取られるのだろうか。恐ろしいことだ。

クリスチャントゥデイ  /  別記事

まったく「必要でもない必要」という一語に尽きる。

(そんなに「対話」がしたいなら、現実に衝突・紛争がある場所に行ってすべきだ)

そして、ここには一つの「心理的」仕掛けがある。

一方では「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである」等と刷り込みながら「過去の教会」を振り返らせないようにし、他方では「御子の受肉それ自体によって人間性はわれわれにおいても崇高な品位にまで高められた」などという甘い観測を吹き込みながら、あなた方が或る意味「安心して」世界のことに従事できるようにすること。つまりは、あなた方を「教会」の外に連れ出すこと。

つまり、あなた方が教会の「建物」の中には居ても、教会の真の使命や目的(人々の救霊等)という点からは「教会の中に居ない」ようにすること。「昔の教え」(しかし、それは真の教えである)を放擲・忘却させること。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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