2015.11.04

教会はその「生き方」に於いて
既に “ニューエイジ” の中に取り込まれている

ソットコルノラ神父の「宇宙的宗教の行事への参加」に関連して

私はソットコルノラ神父の中にソットコルノラ神父だけの問題を見ているのではありません。ソットコルノラ神父の姿を通して、それを一つの “サンプル” として、現在の教会の「病状」が分かると云うものなので、あれらの一連の記事を書いたのです。

例えば──言葉というものを少しシンボリックに見てみましょう。まず、これはソットコルノラ神父が関わりを持った SOPP の公式サイトのタイトル部です。

global、harmony、oneness . . .

そして、見て下さい、これは或る日本の大司教様の講演の表題です。

harmony、inter-religious dialogue . . .  参照元

あなたは言うかも知れません、「確かに似てはいるが、同じではない」と。そりゃそうだ、「似てはいるが、同じではない」。私たちが「もうイエスを神とは信じない」と言わない限り。「私たちも今後、神智学者たちが言うように、イエスを一人の “覚者”(one of ascended masters)として尊敬して行こう」と言わない限り。似てはいるが、同じではない。

しかし、本当にそれでいいのですか?
大いに「浸透」はされているのではありませんか?
この「似ている」ということを、一つの「感染の徴候」として受け取った方がよくはありませんか?
桜の木が栗の木になることはないとしても、桜の木が「汚水を飲まされる」ということはあるでしょうよ。そうなってませんか?

この主題もまだ終われません。また、のちほど。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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