2016.06.04

モルモン教とは何であるか Part 4

ノーヴー神殿
Nauvoo Temple

50 N Wells St, Nauvoo, IL  Map  Wiki

モルモン教の歴史の最初期にできた神殿の一つです。
一つの英文記事を頼りにこの神殿のことを、そしてモルモン教の初期のことを見てみます。〔 〕と強調は管理人。

Utah Lighthouse Ministry

フリーメイソンのシンボルとLDSの神殿

Masonic Symbols and the LDS Temple

By サンドラ・タナー (Sandra Tanner)

2002年の春、LDS教会はイリノイ州のノーヴー神殿の再建を完了した。それはもともとは1840年代に建設されたが、モルモン教徒が町を放棄した後、破壊された。この新しい神殿に関する広報や写真のために、多くの人が建物の上のシンボルについて尋ねてきた。

イリノイ州のノーヴーの神殿の正面(西向き)。設計は建築家ウィリアム・ウィークス。建設はジョセフ・スミスによって着手され、ブリガム・ヤングによって完成された。1848年には教会の西への移転によって放棄され、以来、暴徒による放火や竜巻などによって瓦礫と化していた。The Salt Lake Temple, p.44)

   

それらのシンボルを理解するためには、人は先ず、フリーメイソンとジョセフ・スミスの関係について知らなければならない。ジョセフの兄ハイラムは1820年代からメイソンだった。LDS教会の他の多くのメンバー(ブリガム・ヤングなど)も、モルモン教に加わる前からメイソンだった。 LDS の歴史家リード・ダーハムは次のように述べている:

1840年までに、フリーメイソンの活発なリーダーだったジョン・クック・ベネットがコンマース[ノーヴー]に到着し、モルモン・メイソンたちを含む教会管理人注1のあらゆる者たちに対して説得力ある指導力を素早く発揮しました。(…)ジョセフとシドニー[リグダン]は(…)同じ日に(…)正式にメイソンになりました。("Is There No Help for the Widow's Son?" by Dr. Reed C. Durham, Jr., as printed in Joseph Smith and Masonry: No Help for the Widow's Son, Martin Pub. Co., Nauvoo, Ill., 1980, p. 17.)

彼は更にこう述べている。

私はこれまで、ジョセフに対するフリーメイソンの影響は、教会の初期の歴史に於いて、ジョセフがそれに正式に入会する前から顕著であった、ということを証明しようとして来ました。(…)実際、私は、教会の発展──それは1842年3月15日〔ジョセフ・スミスがフリーメイソンに正式に入会した日〕以降に起こりましたが──の中にはフリーメイソンとの相互依存関係にない顕著な発展などというものは殆どないと考えています。Joseph Smith and Masonry: No Help for the Widow's Son, p.17)

History of the Church は1842年に於けるスミスのフリーメイソン・ロッジへの加入を次のように記録している。

15日(火曜日)  神殿近くの森で執り行われたフリーメイソンのノーヴー・ロッジの開所式で、私はグランド・チャプレンとして務めた。グランド・マスターであるジョナス(コロンバスの)臨席のもと、非常に多くの人が参列した。とても素晴らしい日だった。全ての事が整然と行なわれた。そして、全ての人が満足したのは明らかだった。夕刻、私はノーヴー・ロッジでフリーメイソンの最初の位階を受けた。私の通常業務の事務所で集会が持たれた。管理人注2History of the Church, by Joseph Smith, Deseret Book, 1978, Vol.4, Ch.32, p.550-1)

翌日、スミスは次のように書いている。

3月16日(水曜日)  私はメイソン・ロッジと共にあった。そしてその崇高な位階(sublime degree)を受けた。History of the Church, Vol.4, Ch.32, p.552)

モルモンのフリーメイソンへの関与は、1840年代初期、ノーヴーでその頂点を迎えた。Encyclopedia of Mormonism は次のように書いている。

ノーヴーでのフリーメイソンの導入は、政治的と宗教的、その両方の意味合いを持っていた。(…)結局、ほとんど1500名に近いLDSの男たちが、イリノイ州のフリーメイソンに加入した。そこには教会の司祭的指導部に属する多くのメンバーも含まれていた。──当時のイリノイ州のロッジ〔複数〕では、LDSメイソンでない者はかろうじて150名に届くほどでしかなかった。Encyclopedia of Mormonism, vol.2, p.527)

Salt Lake Tribune(2002年5月4日号, p.C3)はもともとのノーヴー神殿の風見の写真を掲載した。その写真には天使の上にコンパスと直角定規というフリーメイソンのシンボルがあるのが写っていた。記者のペギー・スタックはこう書いている。

もともとのノーヴー神殿のあらゆる詳細が細部に至るまで再建された[新しいノーヴー神殿に]。ただ19世紀のモルモンの神殿の頂きを飾っていた飛翔する天使の風見を一つの例外として。

〔それに代わって〕その場所には金箔を施された天使モロナイが置かれた。ソルトレイク神殿で初めて使われたものである。(…)

体を水平に寝かせたその天使は、コンパスと直角定規を持っていて、現代のモルモン教徒にはあまりにフリーメイソンの儀式と近接したものを感じさせるかも知れない、と幾人かは推測している。Salt Lake Tribune, May 4, 2002, p.C3)

[もともとの建築家が描いたノーヴー神殿の風見の絵]
天使の上にコンパスと直角定規があることに注意。
〔LDSのウェブサイトもこれを表示している。archive

リード・ダーハムは次のように述べている。

エンダウメント(Endowment)として知られることになったモルモン教の儀式は、ジョセフ・スミスによって、彼がメイソンになってから一ヶ月を少し過ぎたあたりでモルモン・メイソンたちの中に導入されたものですが、これがフリーメイソンから直接のインスピレーションを得てのことであったということは、私にとっては全く疑問の余地のないことです。

また、ノーヴー神殿の建築は、或る部分、メイソンから少なくとも影響を受けている、ということも明らかなことです。実際、そこにはメイソンのシンボルやモチーフを利用しようとする意図が感じられます。サンストーン、またムーンストーン、スターストーンがその例です。加えて言えば、神殿の頂きに置かれた風見の天使もそうです。[その天使の上には]美しいコンパスと直角定規があります。それはメイソンの典型的な様式です。Joseph Smith and Masonry: No Help for the Widow's Son, p.18)

[もともとの建築家が描いたノーヴー神殿の星々]

ノーヴー神殿のシンボルの補足的な詳細と建物の写真が Deseret News 2001-2002 Church Almanac(pp.120-
141)に載っている。その Almanac(年鑑)の135頁に、もともとの神殿のサンストーンの写真が載っている。神殿をぐるりと取り囲んだ柱の頂きに置かれていたものである。フォーン・ブローディーの本 No Man Knows My History の298頁(b)にもそのサンストーンの写真が載っている。

[もともとのノーヴー神殿のサンストーン]

ノーヴーのサンストーンは人間の顔を持っており、フリーメイソンの太陽の描き方に似ている。下はフリーメイソンの本 The Craft and Its Symbols(p.75)に載っているイラストである。

〔以下省略〕

管理人

再建された現在のノーヴー神殿

全体像の分かる写真      

上の筆者はこの神殿のムーンストーン(月のレリーフ)を示していないようなので、示しておきます。それは神殿をぐるりと取り囲んでいる柱たちの底部に、顔を下向きにした三日月として在ります。コレ

そして、これはLDSのショップで売っている小物です。

なにか、彼らの世界をよく象徴しているように思われます。その世界とは、西洋占星術のような世界、タロットカードを思わせるような世界です。
そして他方、「イエス・キリスト教会」を名乗るにしては、教会の頂きには「天使モロナイ」があるのであり、他の場所にも、主の十字架や磔刑像は、たとえあったとしてもごく僅かなようです。これは「キリスト教会」ではなく、なにか別の種類の “寺院” です。

[管理人注1]  ダーハムばかりでなく、LDS教会関係者が「教会」と言う時、それは「LDS教会」を意味します。戻る

[管理人注2]  別の記事の中にジョセフ・スミスの「事務所」を見ておきます。戻る

JS’s Red Brick Store, Nauvoo, Illinois

(ジョセフ・スミスの “赤レンガ” 店)

1841年に完成。1842年1月5日にオープン。ジョセフ・スミス所有、しかし1842年以降、その管理は大方、他の者たちによって為された。一階はジョセフ・スミスの雑貨店と会計室。そこで「十分の一献金」を受け取り、記録していた。二階にある部屋の一つ、大きな部屋が、メイソン・ロッジのための集会場として使われた。

The Joseph Smith Papers

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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