2016.07.28

ボブ・ザラテ神父様は帰国なさった

少し前に気づいていたが──以前「立派な神父様」のお一人として取り上げさせてもらった厚木教会の主任司祭ボブ・ザラテ神父様はフィリピンに帰国なさった。今からちょうど丸一年前のこと。

しかし、どういうことか?
私は、次のように時系列順に並べてみたいような気がする。

2014年7月
ザラテ神父様、教会報(NO.128)にこうお書きになる。

3)跪くことと立つこと、どちらの方がいいかと私は何回も聞かれたことがあります。ご聖体を口で受けるか、手で受けるか、どちらが相応しいかとも聞かれました。(…)ご自分で判断してください。神様を拝むためにどちらで心を表したほうがいいですか?

もちろん、こうお書きになる以前から、彼は神の御前に「跪く」ことを愛しておられたのである。それは彼が子供たちに初聖体させる時の様子によく表われている。 2012年2013年2014年

2014年11月

『日本におけるミサ中の聖体拝領の方法に関する指針』が発表される(発表は21日。発効は30日)。
それは “日本に於いては拝領者は「立つ」ことが原則である” ことを再確認し、且つ、或る種の強調をした。

2015年7月1日
『新しい「ローマ・ミサ典礼書の総則」に基づく変更箇所』が発表される(実施は2015年11月29日より)。
それは「日本では」「日本の適応として」といういつもの枕詞と共に、ミサの中では「立つこと」と「座ること」の二つを基本的な姿勢とし、聖体拝領の時のみならずパンとぶどう酒の聖別の時にも「会衆はひざまずくのではなく立つ」と書いた。

2015年7月と8月の境
ザラテ神父様、フィリピンに帰国。

上で「7月と8月の境」と曖昧に書いたのは、厚木教会HPは「7月末」と書いているが、神父様の新ブログによれば「8月2日」であるようだからだ。以下の如く。

About Me

2000年8月2日(司祭叙階された8ヶ月後!)にサレジオ会士として日本に派遣されたフィリピンのカトリック司祭。(…)
3年間、厚木教会の主任を務めた。多くの祈り、識別、熟考の後[のち]、フィリピンに帰る決心をした。15年前にフィリピンを発ったと同じ日にフィリピンに戻った。

Filipino Catholic priest who went to Japan as a Salesian of Don Bosco on August 2, 2000, 8 months newly ordained! … I was parish priest of Atsugi for 3 years. After much prayer, discernment and reflection, I decided to go back to the Philippines. I came back on the same day I left the Philippines 15 years ago.

神父様は帰国の理由について詳しく書いていない。ただ「多くの祈り、識別、熟考の後」と書いているだけである。しかし、なにゆえの「多くの祈り、識別、熟考」だったのか???

私は何も決めつけない。すべては「推測」である。しかし──神父様はまず上記の一番目の新指針を読み、そして当然何事かをお考えになり(お悩みになり)、そして二番目の新指針を2015年の7月の初めに読み(そして、決意に至り)、その一ヶ月後にフィリピンにお帰りになった、ということだろう。

ザラテ神父様は日本という国を、その文化を、人々を、愛して下さったようである。しかし、司祭仲間については(これは日本ということに限らぬようだが)「今にも爆発しそうな火山」を内面に抱えておられたようだ。次は、まだ日本におられる時の神父様のブログ記事である。〔 〕は私による付加。

PARING GALING sa JAPAN

2013年2月2日

“PORMA!”

長い間、このブログから離れていた。そして〔その間〕私の中に多くの沸騰するものがあった。その一つは、“PORMA” 司祭たちに対して感じる怒りである。

I have been away from this blog a long time.  And there has been a lot of angst boiling up in me.  One of these is the anger I feel for “PORMA” priests.

PORMA というのは実のところ英語の “form” を意味する。私たちはこの言葉をマイナーな神学校に居た時によく使ったものだ。最新流行のファッションに身を包み、自分が世界を所有しているかのように歩き、自分が世界について多くの事を知っているかのように振る舞い、にもかかわらず授業ではごく簡単な質問にも答えられず、簡単な試験にも落ち、更にはサッカーボールを蹴ろうとする時に最高に恰好をつけるが、全くとんでもない方向にボールを蹴ってしまう、と云ったような誰かのことを言う時に。PORMA。Puro PORMA。そう、全く形だけの... 内容なし。

PORMA actually means “form” in English.  We usually used this word when we were in the minor seminary against some who wore the latest fad in fashion, walked as if they owned the world, acted as if they knew a lot of the world, but can never answer a simple question in class, flunks the simple tests, or even makes the best form before kicking a soccer ball and totally misses it.  PORMA.  Puro PORMA.  Yes, all form... no substance.

ほぼ13年間、ここ日本に居るけれども、私は私の心の中に、PORMA司祭たちに対して今にも爆発しそうになっている火山があるのを感じている。PORMA司祭はここにも居り、またフィリピンにも居る。多くの PORMA。

Being here in Japan for almost 13 years, I feel like an impending volcanic eruption in my heart is about to happen against these PORMA priests, both here and those I see in the Philippines.  A lot of PORMA.

Facebook は私に、或る種の司祭たちの世界を、また、友達の友達のそのまた友達といった人々の繋がりの世界を見せてくれる。正直言って、私は「伝統主義者」と分類される人々に、より感銘させられる。彼らがアップロードした写真は常に、司祭としての彼らの人生を写したものである。彼らは司祭としての服装を身に着けている。彼らの更新記事は意味を持っており、或る考えや考察を私たちに呼びかけており、そして人々の信仰を高める情報も与えている。

Facebook allows me to see the world of some priests and those of others who are friends of friends and other friends.  Honestly, I am more impressed by those who are branded as “Traditionalists”.  Their uploaded pictures are always about their life as priests.  They are dressed as priests.  If ever they are in their casual clothes, you see them doing things that even children can appreciate.  Their status updates have sense, call for some thought or reflection, and even give information that can enrich your faith.

〔しかし〕それ以外の人たちは... う~ん... 彼らは、誰も他者を裁く権利を持っていない、と言う。そう、私もあえて誰かを裁こうとはしない。私はここでただ、彼らがアップした写真や更新記事から私が受けた印象を書くに留めよう。私は或る司祭の更新記事を見た時など、一体全体彼は、司祭とは何であるのか、司祭はどうあらねばならないかについて本当に知っているのか?と、即座の疑いが湧くのである。あれこれの司祭がアップした写真を見る時、私の脳裡に浮かぶのは PORMA という言葉である。

As for the others.  Hmmm....  They say nobody has the right to judge others.  Yes, I dare not judge.  I am just here to express the impressions that come to me when I see their uploaded pictures and their status updates.   I see the status update of one priest and I immediately come to doubt if ever he was really aware WHO and WHAT a priest must be.  I see the uploaded pictures of this and that priest and only the word PORMA comes to me.

ああ〔しかし〕、私自身が、かつて若い司祭であった頃、PORMA な日々を送っていたのだ! 一人の新人司祭として私は、自分が世界にもたらすことのできる何か新鮮なものを持っていると感じていた。ここ日本に新しく到着した宣教司祭として私は、自分は今、フィリピン出身の司祭たちの「新しい世代」の喜びと活動的なライフスタイルをこの国にもたらそうとしているのだ、と意識していた! 私は多くの目が私に注がれているのを知っていた。私は自分が人気者になるのは簡単だ(特にフィリピン人たちのサークルの中では)と感じていた。あなたがもしフィリピンに居るならば、自分の個人的立場を滅多に表明しない人たちと付き合うことになる。〔それで〕私は、ミサは「パフォーマンス ・レベル 」でされなければならないと思っていた。顔の表情、声の出し方、そして説教の時の多くのジョークと表現法などが極めて重要なものであると思っていた。私は身なりを整えた。乏しい手当からでも、よい衣服を持ち、また買うことができた。私が気を使っていた唯一のことは “baduy” に(見栄え悪く)なってはならないということだった。私は全くハンサムでも魅力的でもない。しかし、司祭であるというだけで、あなたは誰かにとって「ハンサム」に、或いは「魅力的」にさえなるのである。あなたは実際にそれを感じることができる。

Oh I did have my PORMA days as a young priest, too!  As a new priest, I felt I had something fresh to bring to this world.  As a newly arrived missionary priest here in Japan, I was aware I was bringing into this country the joy and active lifestyle of this “new generation” of priests from the Philippines!  I knew that eyes were on me.  I felt it was easy to become popular, especially in the circle of Filipinos.  You get to rub shoulders with the people whose status make you rarely see them in personal if you were in the Philippines.  I thought that the Mass has to be done in “performance level”.  Facial expressions, voice projection, and a stack of jokes and vocabulary for sermons mattered so much, I thought.  I was dressed well.  With a meager allowance, I was able to save and buy good clothes.    The only thing I was conscious of was that I should not look “baduy” (ill fashioned).  I am not handsome nor cute at all, but, just being a priest makes you become “handsome” or even “cute” to some.  You can actually feel it.

トリエント・ミサ(現在、より適切には、特別形式のミサ)が広く知られるようになったこと、そして教皇ベネディクト16世の『スンモールム・ポンティフィクム』の発表が、私をこの「porma世界」の外に叩き出した。もちろん、この「再覚醒」の大きな塊は、私がますます人気者になりつつある(日本の司教区民たちの間でも)にもかかわらず非常に罪深い者のままであった(ある)こと──名声と好評の偽りの慰めによって私の弱さが誤魔化されていたこと──の理解でもあった。私はただ、私はただ「司祭」でなければならない、と感じた。いや... ただ心に於いてのみでなく。この「司祭職」は五官を持ったこの者によって感じ取られねばならないものだった。私は私自身を「司祭」と見なければならなかった。私は私自身を「司祭」と感じなければならなかった。私はそこに「司祭」に特有のものを嗅がなければならなかった。私は私自身が「司祭」であることを聞かなければならなかった。

The rise of awareness on the Tridentine Mass -- now, more properly called the Extraordinary Form of the Mass -- and the release of “Summorum Pontificum” (http://en.wikipedia.org/wiki/Summorum_Pontificum)  by Pope Benedict XVI got me knocked out of this “porma world”.  Of course, a big chunk of this “reawakening” is the realization that despite the growing popularity that I was coming to have (even among the Japanese Catholics in the diocese) I was still (and am still) a very sinful person... weaknesses that were cheated by false consolations of fame and good reputation.  I just felt I just needed to be PRIEST.  No... not just in the heart.  This PRIESThood needed to be felt by this being who has five senses, too.  I had to see myself as a PRIEST.  I had to feel myself as a PRIEST.  I had to smell that fabric characteristic of PRIESTs.  I had to hear myself being a PRIEST.

私は人前で歌うことをやめた(ミサの祈りで歌うことは除いて)。私はどのようなダンスにも加わろうとしなくなった。私は身体的接触を伴うどのような室内ゲームにも加わらぬよう、しっかりしていなければならなかった。写真を撮る時にも、私は誰も私に触らぬようにした。もし人々が「司祭職」というものはそれほど神聖なものだと理解しなければならないなら、私はそのように自分で機先を制さなければならなかった。...自分が人間であることを認めつつも、同時に、司祭職は通常の世の思いからは「離れて」いなければならない、と知ったからである。そうだ、この体... それそのものから。

I stopped singing in public (except if it is a prayer in the Mass).  I dared not join any dance.  I had to be firm not to join any of those parlor games that promoted physical contact.  In picture takings, I did not allow anybody to touch me.  If people have to realize that PRIESThood is such a holy thing, I had to start on it myself... acknowledging my being human and at the same time knowing it had to be “apart” from the usual thoughts of the world.  Yes, this body... this self.

それは難しいことだ。もしあなたが「他の人々と同じように」なる線を既に越えてしまっていたなら、それは難しいことだ。神学校の初日に持っていたような、或いはカソックやローマン・カラーを初めて身に着けた年に持っていたような考え方に立ち戻ることは、難しいことだ。私は公共の乗り物に乗っている時など、時々、自分の首からその白いものを外したいような気になることがある。時々、カソックを着るのに気が進まないこともある。しかし、神の御恵みと共に、私はそれと戦わなければならない。普通のカトリック信者なら、こう言うかも知れない、「そうですか。なら、着なければいいんじゃないですか? 多くの司祭は、もうそんなものは着てませんよ」と。しかしそれは、警察官に警察官の制服を着るなと言っているようなものだ。或いは、既婚者に結婚指輪を外せと言っているようなものだ。ああ、しかし... 私は福音の「覆面」証言者になるために司祭になったわけではない。私はもっと明確なカテゴリーの中に属する。或る意味、私は人々に自分が「神の人」であることを言うために口を開く必要がない。

It is hard.  It is hard when you have already crossed the line of being “like one of the rest”.   It is hard to come back to the very ideals you held dear in the very first days of seminary or in the very first years wearing the Cassock or the Roman Collar.  Sometimes, I feel like removing this white thing in front of my neck when I am in a public transportation.  Sometimes, I feel lazy wearing the cassock.  But I have to fight it, in God’s grace.    Usual Catholics may say, “Then, don’t wear it.  Lots of priests don’t wear it anyway.”  Yet, it’s like telling a policeman not to wear his uniform, or a married person not to wear his/her wedding ring.  Ah yes... I did not become a priest to become an “undercover” witness of the Gospel.  I belong to the more obvious category.  In some way, I do not need to open my mouth to tell people that I am a “Man of God”.

もし一人の司祭が、「他の人々と同じように」なるのでなく、市井の普通の人々がその眠りの中でさえ出来ることを自分もするのでなく、ただ「司祭であること」に留まろうとするなら... その時、彼には PORMA をする必要など全くない!

Rather than be “like the rest of the guys”, rather than do things that even the usual men down the streets can do even in their sleep, if a priest just stays on BEING A PRIEST... he does not need to do any PORMA at all!

(... そして、大言壮語はまだ続く....)

(... and the ranting goes on....)

読者コメント

edith - February 2, 2013

神父様、私は一人の信徒として、あなたが強さを持っていると信じます。私はあなたのフィーリングを尊敬し、あなたの勇気、熱心、そして聖なる司祭職に対するあなたの献身を、心から讃えます。人々は一つの模範としてあなた方(司祭たち)を見上げ、そしてもしあなた方が変な事をすれば、あなた方はすぐに周囲の人々から批判の的にされます。司祭も人間です、私たちはそれを知っています。しかしそれでも、彼らは「司祭」として振る舞わなければなりません。神父様、あなたに神の御加護がありますように...

As a layman, I believe that you have strongpoints, Father. I respect your feelings and I really admire your courage, zeal and dedication for your holy priesthood. People look up upon you (the priests) as role models and if you are doing odd things you are easily subjected to judgement by the people around you. Priests are humans too we understand that. But still they must act as a PRIEST. GOD BLESS,FATHER...

Jub Alabastro - February 2, 2013

神父様、とてもとても啓発的な御記事です。伝統主義者たちは既にこの御記事を facebook で広めています。あなた様の証しに感謝します! あなた様の正直さに感謝します! そして、とりわけ、天主の葡萄園の一人のワーカーで居らして下さることに感謝します! あなた様に神の御加護がありますように!

Very, very enlightening article Fr. Traditionalists are already spreading it around in facebook. Thank you for your witnessing! Thank you for your honesty! And most of all, thank you for being a worker in the vineyard of the Lord. God bless you!

私は、やはり、この神父様は「立派」だと思う。上のコメントを書いた人たちに共感する。(今、信徒からこのような称賛を受ける司祭は日本に居るか?)

でも、彼は「ヒーロー」じゃない。人間としての弱さを持っている。彼に縁ある者は彼のために祈るだろう。

Profile

お名前

ボブ・ザラテ(Robert Paul Arias Zarate)

生 年

1970年

出身地

フィリピン

洗 礼

幼児洗礼

叙 階

1999年12月8日

来 日

2000年8月2日

帰 国

2015年8月2日 (すなわち、日本に15年間)

ご来歴

サレジオ高等工業専門学校教師、カトリック東京国際センター(CTIC)スタッフ、大和教会助任、静岡城内教会協力司祭、鎌倉雪ノ下教会助任、厚木教会主任(2012年4月~2015年7月)

サイト

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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