2017.03.16

脱同性愛者たちの証言 ナタニエル・フロック

With God nothing is impossible.
或る必要から、脱同性愛者たちの証言を集めます。Index

ナタニエル・フロック(Nathanael Flock)

字幕が少し読みづらいですが、しかし、感謝して貼りましょう。
注)拡大して貼ったので、ビデオの操作部が見えなくなってしまいました。操作部が必要なら YouTube で見て下さい。

上のビデオは元々は、既に今まで幾つか見た Christian Broadcasting Network(CBN)が制作したものです。ビデオと言葉を文字に起こしたものがココにあります。HTMLソースの中に見る「article:published_time」は「2010-10-06」となっています。

さて、上のように勇敢に証ししたナタニエルでしたが、CBN がそれを放映して以降、彼の中に或る種の不満が発生したようです。その放映から数年後、彼は自身のブログで次のように書いています。

拙訳、試訳。強調と〔 〕は私による付加。

NATHANAEL˙FLOCK

私は「元ゲイ」ではない

I’m Not Ex-Gay

2015年1月28日

January 28, 2015

私はこの表題があなたの目を引いたと確信します。

I’m sure that title got your attention.

読者の幾らかは、それを見てショックを受けたことでしょう。

For some of you, it’s shocking to see me post something like that.

ショックは時々、人に物事を真剣に考えさせるために最良の方法です。つまり私は、読者の皆さんがこの問題に関する私の立場に完全な注意を払って聞いてくれるよう、〔表題を〕そのようにしたのです。

Shock is sometimes the best way to get a person to take something seriously, and so I’m hoping to have your full attention so that you will hear my stance on this issue.

ここ5年の間、CBN が制作した私の証言ビデオは、インターネットを通じて世界に広まりました。それはかなりの数の言語に翻訳されもしました。そして、私は最近、私に反対するブログさえ発見しました。. . . 世の中には時間を持て余している人も居るようです。

In the past 5 years, my video testimony from CBN has gone all over the internet, translated in a quite a few languages, and I recently even found a blog AGAINST me… Some people have too much free time.

あのビデオ証言そのものは〔私にとって〕「苦くもあり甘くもある」と云ったところのものです。「苦い」と云うのは、それは私の物語を不完全に伝えているからです。「甘い〔良い〕」と云うのは、それでもあのビデオは、私の全くの反抗的な愚かさと完全な堕落にもかかわらず神の愛は不屈であった、ということを十分に伝えているからです。

The video testimony itself was bittersweet – bitter because it was incomplete telling of my story, and sweet because it still spoke enough of God’s unrelenting love despite my utter rebellious foolishness and complete depravity.

元々約2時間かかったインタビューを短いビデオにまとめることは、CBN にとってかなり難しい作業だっただろうと思います。私なら、そんな仕事はしたくないです。彼らは私の声を聞き、私の顔を見ることで、疲れてしまったに違いありません! しかしそれでも、そのインタビューの最も重要な部分の幾つかは、あのビデオには含まれていませんでした。そのため、あのビデオは残念ながら、あたかも私が自分の同性愛から簡単に抜け出したかのような印象を与えています。あのビデオは、私がこの問題に関して神の御心をしっかりと掴むために実行した祈りと断食の年月のことや、私が「真の自由とは、欲望がないということではなく、誘惑の只中で自分がすべきことを選択できる力のことだ」と気づいた時のことには触れていません。

The interview that the video originated from was about 2 hours long, and so CBN had quite a difficult task to condense that amount of content into a short video. I don’t envy the person that had to do that. They must’ve been tired of hearing my voice and looking at my face! Even still, some of the most important parts of that interview were not included in the final cut, and so it unfortunately makes it look like the issue of homosexuality was swept away from my life in an instant. The video doesn’t go into the years of prayer and fasting that I went through to get God’s heart in the matter, or when I found true freedom was not the absence of a desire, but the power to choose what I will do in the midst of temptation.

自由とは、戦いのない状態のことではありません。自由とは、神の霊の内に住みながら、肉欲に打ち勝つことができる能力のことです。

Freedom is not an existence without a fight, it’s the ability to overcome the carnal desires of the flesh by living in the Spirit of God.

ガラテヤ人への手紙 5:16-18

16 わたしが言いたいのはこうなのです。「霊」の導きに従って生活しなさい。そうすれば、けっして「肉」の欲望を満たすことはありません。17 なぜなら、「肉」の望むところは「霊」に反し、「霊」の望むところは「肉」に反するからです。「肉」と「霊」とが互いに対立しているので、あなたがたは、したいと思うことをしないでいる、ということになっているのです。18 もし、「霊」に導かれているなら、あなたがたは律法の下にはありません。

“I say then, walk by the Spirit and you will not carry out the desire of the flesh. For the flesh desires what is against the Spirit, and the Spirit desires what is against the flesh; these are opposed to each other, so that you don’t do what you want. But if you are led by the Spirit, you are not under the law.” – Galatians 5:16-18

自由とは、神の霊と共に生きるということです。それは最も魅力的な、最も喜ばしい、最も賢明な生き方です。しかし残念ながら、あのビデオには、私の物語のそのような側面は含まれていません。それで、一人の若い男が神の憐れみを発見した旅に対して怒って噛みつく人々が出て来たのです。彼らはもしかすると、私があのビデオで「同性愛は悪い、悪い、悪い」といったような闇雲な言い方はしていないということに気づいていないのかも知れません。それで、今でも多くの人が、私を呪い、敬意のない態度で私に反対して話しているのかも知れません。

Freedom is being one with the Spirit of God. It’s the most fascinating, pleasurable, and enlightening way to live. Unfortunately, the video didn’t get into that side of my story. Thus began a firestorm of angry people barking at a young man’s journey about discovering God’s mercy. You may have not noticed that I don’t even make any blanket statement like “Homosexuality is wrong, wrong, wrong” through the entire video – and yet so many curse me and speak against me regardless.

私があのビデオで激しい敵意の声明をしていないにもかかわらずそのような攻撃があるのは、私の物語が何かを「暗示」しているからでしょう。神は御自分と共に歩く人を変えることが「できる」。誰かが変わったなら、他の人々も変わることができるかも知れない。「ナタニエルは変わった。なら、私たちも変わらなければならないかも知れない。しかし、それは嫌だ

The reason for that attack (despite no staunchly antagonistic statement in the video) is that my story still IMPLIES something: God CAN change people who walk with Him, and so if one changes, then others probably should too. “If Nathanael changed, then we might have to change as well, and we HATE that.”

そして、今回の記事のタイトルの理由:

And now to the reason for the title of this blog:

私は「元ゲイ」ではありません。それは聖書の言葉ではありません。聖霊は、聖書によって、イエス・キリスト、パウロ、そして神のペンとなった他の全ての人々を通して、同じメッセージを話しています。私たちは、自分がこれからなろうとしているものに焦点を当てなければなりません。過去そうであったものに対してではなく。管理人注1

I am NOT Ex-Gay. That is not a biblical term. The Spirit spoke the same message through Jesus, Paul, and every other human He used as a pen in the Bible: We must focus on who we are becoming, not who we were.

かつて LGBT コミュニティに深く関与していた者として私は、彼らは殆どの場合ただ、自分たちの気に障るものの周りに彼らのアイデンティティとコミュニティを築く管理人注2ということをじかに知っています。しかしそれは、アイデンティティの持ち方としてはとても悲しいものです。また「元ゲイ」というのも〔もしそれが “アイデンティティ” だと云うなら〕悲しいものです。何故なら、それはいまだに過去にフォーカスしているということを意味しているからです。

As one who was once deep in the the LGBT community, I know first-hand that they mostly build their identity and community simply around what arouses them. That’s a very sad foundation for identity. Ex-Gay is also sad, because it’s still focusing on the past.

「元ゲイ」という言葉は、人にラベル付けするには便利なものです。それはまるで、或る一本のクレヨンに関して「それは青ではない」と言う時のようなものです。

“Ex-Gay” is about as helpful of a label on a person as “Not blue” is on a crayon.

OK、確かに青ではありません。. . . しかし、それがどうしたというのでしょう?

OK, so it isn’t blue… but what is it?

OK、確かに「元ゲイ」です。. . . しかし、今は何ですか?

OK, so you are Ex-Gay… but what are you now?

実際、「元ゲイ」という言葉は、顔を平手打ちするような感じのものです。「私はもうゲイではありません(NOT)!」

In reality, the term “Ex-Gay” feels like a slap to the face. “I am NOT gay anymore!”

平手打ち。

Slap.

そのような、人々の目を引きはするが、人々が物事を違った角度から見ることを妨げるような非啓発的な用語を振り回し続ける限り、私たちはかえって、同性愛者のコミュニティーの存続に手を貸しているようなものではありませんか?〔誤訳か〕

Is that how we plan on loving the homosexual community – with an uninformative title that knocks people but doesn’t love them into a different perspective?

更に私を苛立たせるのは、私の物語を触れ回っている人たちが、それをまるで剣を振り回すようにして使っていることです。私は最近、人々がその CBN のビデオを、同性愛の有名人たちのソーシャルメディアで振り回しているのを見ました。

What frustrates me even more, is that people fling my story around like it’s their sword to swing. I recently found people are swinging the CBN video at gay celebrities on social media:

「さあ、見なさい。このナタニエルは『元ゲイ』です。あなたも悔い改めなければなりません。では、ごきげんよう!」

“Here’s ex-gay Nathanael – you should repent. Have a nice day!”

平手打ち。

Slap.

聞いて下さい。そんなことでは助けになりません。そこには「変わった」などという言い方には収まり切らない、もっと多くのことがあるのです。誤解しないで下さい、私は今、妻と子を持っていることを、以前は決して知らなかった喜びと充足をいっぱい経験していることを感謝しています。主が私に「狭い門」をくぐらせ、私が「古い人」を脱ぐことができたことを、主に無限に感謝しています。しかしそれでも、それは私の物語の「一部分」でしかありません。私は「元ゲイ」ではありません。私は年毎にイエスに対する愛を激しくしている神の息子です。私は愛することを、そして愛されることを、新しい仕方で学んでいます。私たちは確かに「体」〔教会?〕の中で証しと勝利を祝いますが、しかし、この人生というものはそれを超えて、愛情をこめて未来に向かうということであるのです。

C’mon guys. That’s not helpful, and there’s so much more to my story than that change. Don’t get me wrong – I’m thankful that I now have a wife and kids, and I’m experiencing a measure of joy and fulfillment I never knew before. I’m infinitely grateful to the Lord for bringing me through the narrow gate so I could leave that part of the “old man” behind. But, that is just ONE part of my story. I’m not Ex-Gay. I’m a son of God falling more wildly in love with Jesus every year. I’m learning to love, and be loved, in new ways. While we do celebrate testimonies and victories in the Body, this life is meant to be more about lovingly aiming towards the future.

「愛すること」と「知らせること」について新しい仕方を見つけましょう。私は、あなたが誰か御父の力を本当に必要としている人に会った時、私の証言ビデオや他の同様のものをその人の前で振ってみせる前に、まずその人のために心をこめて祈ってくれるよう頼みます。管理人注3

Let’s find a new way of loving and informing. And, I ask that you respectfully pray before swinging that video, or any other, at someone who really just needs to experience the power of Father’s love.

[管理人注1]  彼の念頭にあるのは「新生」である。スティーブン・ベネットと同じく、そしておそらく全ての脱同性愛者と同じく、彼は次のような聖句を愛するだろう。

1コリント 6:11
あなたがたの中には、以前このような人もいました。しかし、あなたがたは洗い清められたのです。聖なるものとされたのです。主イエズス・キリストの名によって、また、わたしたちの神の霊によって、神との正しい関係にある者とされたのです。

2コリント 5:17
ですから、だれでもキリストと一致しているなら、新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、今は新しいものが到来したのです。

[管理人注2]  つまり、彼らは多くの場合、「反感」「反発」「反抗」に “動機づけられて” いるということだろう。もちろん、彼らが「自分は同性愛者として生まれた」と信じているなら、まあ、無理もない、というところなのかも知れないが。
そして「反抗」は彼らだけの問題ではない。人類全ての問題である。例えば、私たちだって、心の内で、「私は男に生まれたのだ。だから、少しぐらい○○したって不自然ではないだろう。それがどうしても悪いと言うのなら、その責任の半分は、私を男に造った神にもあるだ」と呟くかも知れない。ここには一種の理屈もあるが、それと同時に、少なくとも、最初の「反抗」の “種火” がある。

[管理人注3]  立派な言葉だ。私もまた、今収集している証言を同性愛を生きてしまっている人たちの首を絞めるためには使わない。現にそうしているつもりはない。ただ、日本は幸か不幸かこの問題に関しては後進国であって(日本のキリスト教界も含めて)、「人権」については話しても、「同性愛から解放された」と証ししている人も決して少なくないという事実に関しては情報が圧倒的に少ない。否「皆無」と言っていい。だから、不肖私は、その空白を少し埋めたいと思ってやっている。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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