2017.03.16

脱同性愛者たちの証言 或る翻訳書から

With God nothing is impossible.
或る必要から、脱同性愛者たちの証言を集めます。Index

日本では、キリスト教の視点から同性愛問題についてだけ書いた本は、ただこの翻訳書一冊きりではないでしょうか。(右は原書)

『男か女か ~同性愛のカウンセリングに~』ボブ・デイビーズ/ローリー・レンツェル共著、田辺和子訳、2000年、ICM出版

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COMING OUT OF HOMO­SEXUALITY New Freedom for Men & Women by Bob Davies & Lori Rentzel

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この二人の著者はかつてエクソダスの関係者でした。

目 次

第一章 

同性愛者は本当に変わることができるのか

第二章 

聖書および科学からみた変化の証拠

第三章 

変化の過程[プロセス]

第四章 

根を掘り出す

第五章 

別れを告げる

第六章 

中毒のパターンを打ち砕く

第七章 

どんなことが思いの中にあるか

第八章 

アイデンティティー(自己認識)の変化

第九章 

健全な友情を築く

第十章 

つらい過去との平和を図る

第十一章 

デートと恋愛

第十二章 

結婚への準備

第十三章 

夫婦間の心の親密さの成長

第十四章 

将来へのビジョン

付録A 

同性愛擁護派の間でよく聞かれる主張への反論

付録B 

さらに読み進めたい人に

付録C 

これからの助けを得るには

付録D 

個人用およびグループ用の質問

注釈 

 

少し引用させてもらいます。

第一章 同性愛者は本当に変わることができるのか?

 マイク・リードは、子供の頃から他の少年たちとは違うと感じていました。「やい、いくじなし!」 学校の校庭でマイクはよくこうはやし立てられました。「お前、女みたいにボールを投げるんだな!」 いじめは時に言葉だけではすみませんでした。ある時、同級生の男の子たちは、靴の中に、針先が中から外に突き出すように針をしのばせ、遊び場のすみにマイクを追い詰めて、その靴でマイクを血が出るほどに蹴ったのです。それ以降ちょっとでも「強そうな」少年が近づいてくると、マイクはガタガタ震えるようになってしまいました。

 高校に入ったマイクは、学校劇で役をもらい、劇場に出入りする若者たちと付き合うようになりました。そこでマイクは、そういった若者たちの多くが自分と同じように仲間外れにされた経験を持っていることを知り、それからというもの、マイクたちは互いに助け合う同盟を結びました。けれどもマイクはその中の一番近い友だちにでさえ、自分のうちで、他の男性に性的に惹かれる気持ちがどんどんふくらんできていることを知らせませんでした。

 大学在学中、初めて同性愛の関係を持ったマイクは、その時やっと本当の自分を見出したような気持ちになりました。その最初の体験以降、マイクはゲイバーに頻繁に出入りし始め、他の男性たちと数々の性的な関係を持つようになりました。

 それからマイクはある男性と「恋に落ち」、長期的な関係へと入っていきました。「これこそ僕がずっと探し求めていたものだ」と、マイクは思いました。男性からの愛と注目という必要性が、ついに満たされたかのように思えたのです。

 けれどもその「長期的な」関係はたった一年もっただけで、崩壊していきました。マイクは霊的な探求を始めるようになり、神秘主義、ヨガ、クリスチャン・サイエンスなどを試したあと、やっとキリストにとたどり着きました。

 「職場の友人二人に誘われて教会に行き、そこで、イエスが僕の罪のために死なれたことを聞きました」とマイクは当時を振り返っています。「そのあとはゲイバーから足が遠のいていったのです。」

 それからマイクは教会で、ある魅力的な男性に出会いました。それは以前バーで見かけたことのある顔でした。礼拝の後で話し始めた二人は、その場で絆を感じました。「僕たちは二人ともゲイで、それに二人とも神に対する共通の信仰を持っている」とマイクは思いました。それは関係を築き上げる基盤として完全なものと思えました。まもなく二人は性的に関係を持つようになってしまいました。

 二週間後、二人ともが、何かが間違っているという良心の呵責を覚えました。ある晩ベッドで、マイクの恋人はマイクのほうを向いてこう言いました。「僕たち、これ以上こんなことはできないよ。これは間違っているよ。」 彼は聖書を開いて、マイクに同性愛の関係を禁じている箇所を見せました。

「その聖書箇所は僕にとって脳天をかち割るようなショックでした」とマイクは認めています。「僕たちはひざまずき、同性愛から立ち返れるように助けてくださいと主に願ったのです。」管理人注1

 マイクは別の家へと引っ越し、同性愛の過去がまったくないクリスチャンの男性たち二人と同居するようになりました。それからマイクの霊的な探求の旅が熱心に始められました。ゲイバーからほんの二つしか通りをへだてていないようなレストランで働いていた時でさえ、そして昔のゲイ仲間がやってきてはマイクをひやかすような時でさえ、マイクはクリスチャンの立場を堅く守りました。マイクはそのようなゲイたちの目の中に、以前自分が心に感じていた虚しさと満たされない気持ちが読みとれるようになっていったのです。

 やがてマイクはカリフォルニア州サンラファエルにある「ラブ・イン・アクション[訳者注…行動する愛という意味]」というクリスチャンの組織のことを耳にしました。それは同性愛を克服する助けを提供することを専門とした組織でした。一九七九年六月、マイクはそこの泊まりがけプログラムに参加しました。それから数ヶ月間をかけて、マイクは、男性としての自分のアイデンティティー(自己認識)や、自分以外の男性たちに対する劣等感、日常の思考パターンの鍛錬や、教会内の「ストレート1」な男性たちと健全な友情関係を築いていく必要性といった、自分の人生の深い問題について扱い始めました。

1  本書では、便宜上、今までに同性愛の葛藤を覚えたことのない人たちを「ストレート」(…)と呼ぶことにしました。(…)

 それから数年間をじっくりかけて、マイクは深くて大きな、ゆるがない変化を経験していきました。特に、周囲の男性たちと築いていった友情関係は、マイクの人生を大きく変えていきました。神はそのような友人たちを用いて、マイクに、いやしと、自分は受け入れられているのだという気持ちを与えていってくださったのです。時々、まだ同性愛の誘惑が残っていると感じて落胆するような時もありましたが、それでもマイクはねばり強く、変えられていくことを切に求めていきました。

 「僕がふんばる〔persevere〕につれて、神は僕を脱出の道へと連れ出してくださるようになりました」とマイクは語っています。マイクは、聖書の中で、神がどれほど自分を愛してくださっているかを、そして自分の人生にも目的を持ってくださっているということを、何度も何度も繰り返して読みました。「僕の心は一新されつつありました。でもそれは時間のかかることだったのです。僕は忍耐を持たねばなりませんでした。」

 自信を身につけていくにつれ、マイクは徐々に、教会の賛美礼拝グループの中でリーダーの役割を担うようになり、最終的には二百人の成人が集まるその教会で、定期的に礼拝をリードするようになりました。時おり過去の同性愛の記憶を思い出すことがありましたが、それでも新しい挑戦と友情関係に自分自身を向かわせていくようにとしました。マイクは、神が自分の人生のために立ててくださったご計画がすべて実現することを望んだのです。

 その後マイクは、教会で出会った女性たちとデートするようになりました。そのような関係のうち一つが真剣な交際にと発展し、一九八七年、マイクは結婚しました。今日、マイクとその妻ヘレンは三人の子どもに恵まれています。

 現在マイクは、以前の同性愛者としての人生は、過去のはるか遠いところのもののような気がすると語っています。「僕は今、自分を一人前の男性、たくましく安定した一人の男性として考えています。自分が同性愛者であるとは思っていませんし、また『元同性愛者』であるとも、それほど思ってはいません。同性愛は、今の僕にはどんどん関わりが薄くなってきている分野だと思えるのです。」管理人注2

変化は可能
 マイク・リードは、私たちが個人的に知っている、同性愛を克服した何百人もの男性たちのうちのほんの一人にすぎません。私たちはまた、同じような経験をしてレズビアンの過去を克服した大勢の女性たちも知っています。(…)

p.26
 本書の著者ボブ・デイビーズとローリー・レンツェルは、一九七九年に、当時カリフォルニア州サンラファエルにあった「ラブ・イン・アクション」のスタッフに加わって以来、同性愛からの脱出を助ける働きに携わってきました。私たちは二人とも、同性愛からの脱出を専門に、照会や助けを世界規模で提供しているネットワーク「エクソダス・インターナショナル」のリーダーでもあります[訳者注…エクソダスとは脱出の意味、聖書の出エジプト記も同名]。一九八五年以降ボブは「エクソダス」の幹部役員としても奉仕しています。(…)

pp.30-31
 このようないやしの過程がどれほどつらいものであるか、私たちはよく承知しています。再び同性愛に戻ることを選んだ友人たちやカウンセリング相手たちをよく知っている私たちには、彼らを厳しく裁いてしまうことなど、とてもできません。けれども同時に私たちは、これまで本当に長きにわたって、本当に大勢の男性や女性たちの内に、堅固で本質的ないやしが起こるのも、この目で見てきたのです。それゆえ私たちは今何のためらいもなく、こう言い切ることができるのです。「同性愛から脱出する道は確かにあります。まごころからそう願う人には、男性であっても女性であっても、キリストにおける望みといやしがあるのです」と。管理人注3(…)

p.36
 現在そのような男性や女性たちの中には、同性愛の関係を持たなくなって十年、二十年という人たちがいます。彼らは、自分たちの内側の強い同性愛の渇望をただ抑えつけてきているだけというのではありません。彼らの人生の中で、この同性愛という問題が真に解消したのです。

[管理人注1]  同性愛からの脱出は必ずここから始まる。つまり、聖書の言葉を素直に受け取るところから。それに反して LGBT CJ の小笠原晋也氏がしているような「聖書は異教の偶像崇拝と結びついた同性愛だけを禁じているのであって、同性愛一般を禁じているのでは決してない」と云ったような論述にあなたが頷くならば、その時点で同性愛からの脱出の道は閉ざされる。これは道理である。

[管理人注2]  前回のフロック氏の文章を思い出させる。つまり、彼ら、神によって「一新された」人たちにとっては、自分がかつて「ゲイ」であったこと、自分が「元ゲイ」であることは、今や、なにか「遠いところの話」のようになってしまっているのだろう。

[管理人注3] 「まごころからそう願う」というところは原書では「truly desire」となっている。つまり「真に願う」「心から願う」ということである。ところで、もう一度言う。あなたは、一方で小笠原晋也氏の論述に頷きながら、他方で同性愛からの脱出を「心から願う」ということができるだろうか。あなたには、その二つは「両立できない」という、この道理が分かるだろうか。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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