2017.04.05

同性愛に関する教会の教え

同性愛を擁護し、或いは “完全肯定” さえし、それに対する教会の態度を変えようとしている人たち(例えば LGBT CJ の共同代表たち)はこんな時、「同性愛に関する教会の教え」とは決して言わず、「同性愛に対する教会の現在の立場」と言うことでしょう。
しかし私は、第二バチカン公会議後の教会の流れをあまり好きではないけれども、しかしこの問題に関しては大きな誤りはないと思うので、「教え」ということでいいと思います(現実的には「足りない教え」だろうけれども。下段参照)。

以下の資料は、一つを除いて以前も取り上げたものですが、復習のために。否、本当は次回のために。

1. カトリック教会のカテキズム(1992年
2. 同性愛者に対する司牧的配慮についての書簡(1986年
3. 性倫理の諸問題に関する宣言(1975年

カトリック教会のカテキズム
(1992年)

貞潔と同性愛

Chastity and homosexuality

2357 同性愛とは、同性に対してのみ、もしくはおもに同性に対して性愛を抱く男同士、または女同士の関係を意味します。これは時代や文化の違いによって、きわめて多様な形をとっています。その心理学的原因はまだ十分には解明されていません。これを重大な堕落としている聖書に基づき104聖伝はつねに、「同性愛の行為は本質的に秩序を乱すもの」105 であると宣言してきました。同性愛の行為は自然法に背くものです。これは生命を生み出すはずのない性行為です。真の感情的・性的補完性から生じるものではありません。どのような場合であっても、これを認めることはできません。

104  

創世記19:1-29ローマ1:24-27一コリント6:9-10
一テモテ1:10 参照

105

教理聖省『性倫理の諸問題に関する宣言』8loc. cit., 85)

2358 かなりの男性や女性が、同性愛の根強い傾向を持っています。この傾向は、客観的には逸脱ですが、彼らの大部分には試練となっています。したがって、同性愛的な傾向を持つ人々を軽蔑することなく、同情と思いやりの心をもって迎え入れるべきです。不当に差別をしてはなりません。これらの人々は、自分の生活の中で神のみ旨を果たすように、キリスト信者であれば、自分のこの傾向から生じる困難をキリストの十字架の犠牲と結び合わせるように、と呼びかけられているのです。

2359 同性愛的な傾向を持っている人々は貞潔を守るよう招かれています。内的自由を培う自制の徳によって、時には友人の献身的な助けのもとに、祈りや秘跡の恵みによって、少しずつではあっても確実にキリスト教的完全さに近づくことができるし、またそうしなければなりません。

2357番の「これを重大な堕落としている聖書に基づき」の「これ」という代名詞は何を意味しているのか。多くの人は「同性愛」を意味していると思うのではないか。

人は文章を上から下に読む。読む人の目に、まず「同性愛とは」というのが入り、次に「これは時代や文化の違いによって、きわめて多様な形をとっています」というのが入り、次に「これを重大な堕落としている聖書に基づき」というのが入る。自然、この二つの「これ」は同じものと映ってしまう。

しかし本当は、正確には、違うようである。二番目の「これ」は「同性愛の行為」を意味しているようである。

と云うのは、カテキズムの英語版は、日本語版が「これを重大な堕落としている聖書に基づき」としている部分を「同性愛の行為を重大な堕落行為としている聖書に基づき」と書いているからである。

The Holy See

Catechism of the Catholic Church

(1992)

2357 Homosexuality refers to relations between men or between women who experience an exclusive or predominant sexual attraction toward persons of the same sex. It has taken a great variety of forms through the centuries and in different cultures. Its psychological genesis remains largely unexplained. Basing itself on Sacred Scripture, which presents homosexual acts as acts of grave depravity,141 tradition has always declared that "homosexual acts are intrinsically disordered."142 They are contrary to the natural law. They close the sexual act to the gift of life. They do not proceed from a genuine affective and sexual complementarity. Under no circumstances can they be approved.

141  

Cf. Gen 191-29; Rom 124-27; 1 Cor 6:10; 1 Tim 1:10.

142

CDF, Persona humana 8.

2358 The number of men and women who have deep-seated homosexual tendencies is not negligible. This inclination, which is objectively disordered, constitutes for most of them a trial. They must be accepted with respect, compassion, and sensitivity. Every sign of unjust discrimination in their regard should be avoided. These persons are called to fulfill God's will in their lives and, if they are Christians, to unite to the sacrifice of the Lord's Cross the difficulties they may encounter from their condition.

そして、上の赤太字の強調(私による)で分かるように、カテキズムは、2357番では同性愛の「行為」について言っており、2358番では同性愛の「傾向」について言っている。「行為」と「傾向」を “分けて” 書いているのである。

ところが、日本語のカテキズムは、「これ」という代名詞を下手に使ったために、そのことが分かりにくくなっている。

この、「行為」と「傾向」の二つを “分けて” 考えるという仕方は、カテキズムより前に発表された、教理省の或る書簡の中にも窺われる。日本語は拙訳。

教理省

同性愛者に対する司牧的配慮についての書簡

(1986年)

3.(…)同性愛者に特有な傾向それ自体は罪ではないが、それは多かれ少なかれ、それが内蔵している道徳的な悪へと人を牽引する強力な傾向である。それ故、その傾向それ自体をも、一つの客観的な障碍と見做さなければならない。

The Holy See

Congregation for the Doctrine of the Faith

Letter to the Bishops of the Catholic Church
on the Pastoral Care of Homosexual Persons

(1986)

3.(…)Although the particular inclination of the homosexual person is not a sin, it is a more or less strong tendency ordered toward an intrinsic moral evil; and thus the inclination itself must be seen as an objective disorder.

ところで、カテキズムの2357番は、脚注105番で、教理聖省『性倫理の諸問題に関する宣言』8、というのを挙げていた。
その文書は、上の「書簡」よりも更に前のものであるが、日本語に翻訳されて出版されている。下にその部分、8番を掲げる。

教皇庁教理聖省

性倫理の諸問題に関する宣言

(1975年)

(中央出版社、1976年刊)

8 現代では、心理学上の所見に基づいて、ある人々の間の同性愛関係を寛大に判断したり、あるいは全く是認し始めた人々がいる。彼らは教会の教導職の常日頃の教えにも、またキリスト者の道徳的センスにも反しているのである。

同性愛は、その傾向が間違った教育、尋常の性的発達の欠如、習慣、悪い模範から来る一時的なもの、少なくとも治癒可能な種類のものと、何かの先天的な本能や、治癒し難いと判断される病理学的原因に基づくものとに区別されているが、それには理由があるようである。

この第二の部類の人々について、ある人々は次のように結論する。「彼らの傾向は自然であるから、彼らが孤独の生活に耐えられないと感じるかぎりにおいて、彼らの場合は、生活上の誠実な交わりと結婚に類似した愛の枠内で、同性愛関係は正当である」と。

司牧の場では、同性愛の人は理解をもって取り扱われ、また、個人的な困難と社会に適応していく無力を克服する希望をもって彼らを支えてやるべきである。彼らの過ちは慎重に判断されなければならない。しかし、この行為が、このような人々の状態に基づくという理由のもとに、道徳的に正当であると認めるような司牧的方法をとることはできない。なぜなら、客観的道徳の秩序によれば、同性愛関係は、本質的で必要欠くべからざる究極目的に欠けている行為だからである。聖書では重大な堕落として非難され、また、「神をしりぞける悲惨な結果」(18)としてさえ示されている。もちろん、聖書のこのようなさばきは、この変態で苦しむすべての人々が、それに対して個人的に責任があると結論することをわれわれに許しているのではない。しかし、それは、同性愛の行為が本質的に秩序を乱すものであり、決して承認できるものではないことを明らかに示している。

(18)

ローマ 1・24~27、「そこで神は、彼らをその心の欲にまかせ、互いにその身をはずかしめる淫乱にわたされた。彼らは神の真理を偽りに変え、創造主の代わりに被造物を拝みそれを尊んだ。神は世々に賛美されますように。アーメン。
神は彼らを恥ずべき欲に打ちまかせられた。すなわち女は自然の関係を自然にもとった関係に変え、男もまた女との自然の関係を捨てて互いに情欲を燃やし、男は男と汚らわしいことを行なってその迷いに値する報いを身に受けた」。
コリント前 6・10、チモテ前 1・10 参照。

上に「変態」という言葉が出て来た。この言葉は、私たちの世俗世界で大いに手垢がついてしまっている言葉である。多くの場合、それは蔑称である。しかし私は、当事者の人たちに、「語感」というものにあまり神経質にならないで頂きたいと申し上げたい。上の宣言筆者は、その言葉をそのような軽蔑的な意味で使っていない。そして翻訳者も、現代なら、別の言葉に、例えば「変調」とでも訳すかも知れない。

同宣言の英語版

The Holy See

Sacred Congregation
for the Doctrine of the Faith

PERSONA HUMANA

Declaration on Certain Questions
Concerning Sexual Ethics

(1975)

VIII

At the present time there are those who, basing themselves on observations in the psychological order, have begun to judge indulgently, and even to excuse completely, homosexual relations between certain people. This they do in opposition to the constant teaching of the Magisterium and to the moral sense of the Christian people.

A distinction is drawn, and it seems with some reason, between homosexuals whose tendency comes from a false education, from a lack of normal sexual development, from habit, from bad example, or from other similar causes, and is transitory or at least not incurable; and homosexuals who are definitively such because of some kind of innate instinct or a pathological constitution judged to be incurable.

In regard to this second category of subjects, some people conclude that their tendency is so natural that it justifies in their case homosexual relations within a sincere communion of life and love analogous to marriage, in so far as such homosexuals feel incapable of enduring a solitary life.

In the pastoral field, these homosexuals must certainly be treated with understanding and sustained in the hope of overcoming their personal difficulties and their inability to fit into society. Their culpability will be judged with prudence. But no pastoral method can be employed which would give moral justification to these acts on the grounds that they would be consonant with the condition of such people. For according to the objective moral order, homosexual relations are acts which lack an essential and indispensable finality. In Sacred Scripture they are condemned as a serious depravity and even presented as the sad consequence of rejecting God.[18] This judgment of Scripture does not of course permit us to conclude that all those who suffer from this anomaly are personally responsible for it, but it does attest to the fact that homosexual acts are intrinsically disordered and can in no case be approved of.

18. Rom 1:24-27 "That is why God left them to their filthy enjoyments and the practices with which they dishonor their own bodies since they have given up Divine truth for a lie and have worshipped and served creatures instead of the Creator, Who is blessed forever. Amen! That is why God has abandoned them to degrading passions; why their women have turned from natural intercourse to unnatural practices and why their menfolk have given up natural intercourse to be consumed with passion for each other, men doing shameless things with men and getting an appropriate reward for their perversion" See also what St. Paul says of "masculorum concubitores" in I Cor 6:10; I Tim 1:10.

実はこう思う

私は同性愛に関するこれらの教会文書を「教え」と呼んだ。確かに、これらの文書は間違ったことは言っていないから、「教え」でいいと思う。しかし私は、本当言うと、「これだけでは助けにならない」とも思っている。「同情と思いやりの心をもって迎え入れるべきです」という言葉は、あくまで、同性愛傾向を持たない一般の信者たちに向けられた言葉である。確かに、信者たちが皆そのような姿勢になれば、同性愛傾向を持つ人たちも大いに嬉しいのだろう。しかしまた、ただそれだけでは、自分の同性愛傾向から脱したいと望んでいる人にとっては、ほとんど助けにならないのではないかと思う。カトリックはこの方面に関しては “未開発” だと思う。

そして、それどころか、多くの司祭たちに於いては、「同性愛というものをどう考えるか」に関して、信仰そのものが揺らいで(或いは、薄らいで)いるのではないか。つまり、彼らの多くは最早、それを問題としたくないのではないか。「行為」でさえ「罪」とは呼びたくないのではないか。もしそうなら、この先も、助けの方策は開発されないだろう。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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