2017.04.19

「LGBT カトリック・ジャパン」 のウェブサイトにそこはかとなく漂う
狂気(善意の部分はいい。しかし、狂気を孕んでいちゃ駄目だろ)2

言葉の曖昧さ

彼らの blogspot を初めてパラパラと見た時、私が真っ先に感じたのは彼らの「言葉の曖昧さ」であった。

例えば、各ページの右にある自己紹介欄を見るならば、

LGBTIQ+ であるあなたが,全包容的な神の愛の恵みを求めてカトリック教会に気がねなくいらっしゃることができるようになるよう(…)

また、そのブログの最初の記事、最も古い記事を見るならば、

LGBT の人々がカトリック教会に抵抗感無く来ることができるようになることを目ざして(…)

2015年8月18日火曜日 LGBT カトリック・ジャパン(仮称)の設立

また、別の記事には、

性的少数者をカトリック教会へよりよく包容するために(…)

2016年8月18日木曜日

「気がねなく」「抵抗感無く」「よりよく包容」...
彼らのこれらの言い方は、彼らが LGBT の人たちに親身になっていることを示している。「善」を醸している。しかし、あまりに漠然過ぎて、かえって気持ちが悪い。
「よりよく包容」って、何。 具体的に。

「気がねなく」「抵抗感無く」とは、要は “気持ち” 的なところを言っている。そして私もまた、或る意味で、その人たちが「気がねなく」「抵抗感無く」教会に来れることを願っている。そして私もまた、或る意味で、教会がその人たちを「よりよく包容」することを願っている。

しかし、何事も「曖昧」「漠然」であってはならない。是非とも “掴みどころ” のある話し方をしなければならない。具体例を使うことが望ましい。だから、私としては先日、先ず、残念ながらキリスト教の教えと無関係ではない現実のネガティブな一面を具体的に挙げたのである。参照: 現実の一側面

そして、ここで再確認しておくならば、私は LGBT の人たちが教会の仲間から「蔑み」の目で見られるのを望まない。また、LGBT の人たちが司祭から「二度とこの教会に来るな」と言われるなど “論外” だと思っている。(ここはハッキリ覚えておいて貰いたい)

しかし、それで終わりではない。それだけでは「包容」の意味が定かでない。だから、私は次に、神の真理に合致するであろうこの場合の「包容」の意味、形、方向性を、一つは教会のカテキズム、また一つは脱同性愛者たちの言葉を引きつつ表明したのである。後半

しかし LGBT CJ は、彼らのサイトを初めて訪れた私たちが何度も見せられることになるその「包容」という言葉の意味を、その場ではっきりさせないのである。
私は「柔和な笑顔を浮かべてはいるが、どこか得体の知れない人」に会ったような気がしたものである。

しかし、読み進めるうち、彼らの真意が次第にはっきりして来た。それは先行記事に書いた通りである。

彼らは彼らのミサで、LGBT の人たちが LGBT としての
生き方のままで御聖体拝領することを黙認するのではないか

そういう気持ち悪さを抱えながら読み進めた私の目に次に入って来たのは、以下のようなものであった。

LGBTCJ blogspot

2015年8月18日火曜日
LGBT カトリック・ジャパン(仮称)の設立

(…)

日本でも,プロテスタントにおいては,自分が LGBT であることを公表している牧師が幾人かいます.彼らが主催する礼拝には,LGBT カトリック信徒も参加しています.そのような人々にとっては,肩身の狭い思いをせねばならない一般の小教区の御ミサより,自分が素のままでいられる同性愛牧師の礼拝の方が来やすい,しかし,それではカトリックの聖体拝領に与ることができない – それが彼ら・彼女らの悩みです.

以上のような現状に鑑み,我々は「LGBT カトリック・ジャパン」の名称のもとに,LGBT の人々が気がねなくカトリック教会に来ることができるようになるよう,(…)

LGBTCJ blogspot

2016年10月1日土曜日

(…)

参加可能なのは,御自身 LGBTIQ+ である方々のみです.普段,小教区教会の通常の御ミサに参加しづらいと感じている方も,気がねなく聖体拝領や祝福にお与りください

このような箇所を読んで「この人たちは LGBT の人たちが LGBT としての生き方のままで * 御聖体拝領することを望んでいるのではないか?」と、私がほんのり疑ったとしても、そんなに不自然なことではないだろう。

* つまり、それに伴う「性行為」を生きていてさえ。

「肩身の狭い思い」「参加しづらい」「気がねなく」... これらは “気持ち” 的なことを言っている。つまり「感情」に関することである。しかし、同性愛等の「傾向」を持っている人が御聖体拝領できるかどうかは「理性」で割り切らなければならない問題である。例えば──

同性愛の「傾向」を持っているというだけでは御聖体拝領できないとは限らない。しかし、昨夜同性愛「行為」をしたならば、私はそれを悔いた上、ゆるしの秘跡を受けない限り、御聖体拝領できない。

──というふうに。

現在の教会の教えに従えば、どうしてもそうなる。そういうふうに考えなければならない。

しかし、LGBT CJ は、そのリーダーたちは、この点に関し物事を曖昧にしながら LGBT 当事者たちを「包容」するのではないか。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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